2017年1月23日 (月)

『沈黙 −サイレンス−』──俳優の肉体+風景美のカット+クリアな問い(★★★★★)

『沈黙ーサイレンスー』( マーティン・スコセッシ監督、2017年、原題『SILENCE』)

 

 フロイスの日本史によれば、本作の時代より百年ほどの前の織田信長の時代より、キリスト教徒の迫害は行われていて、それは、信長自身による、一種の「ジェノサイド」のようだった。キリスト教徒はもちろんのこと、ついでに反抗的な百姓など、ちょうどナチのユダヤ人迫害の時、ジプシーや同性愛者も「処分」されたように、権力にとって都合の悪い人間、組織からはみ出してしまったような人々もまとめて、老若男女を問わず、大勢が処刑されていた。その場所は、おもに、法華経の寺であった──。

 日本の国としては、ようやく百姓などの下部組織にいる人間たちが、「村」単位に支配、搾取されるのに目覚め、一揆を起こし始める。それには、キリスト教がもたらした、個人の人間としての目覚めが、人間扱いされなかった人々の意識を支えたとも言える。そういう「思想」は、キリスト教であれ、なんであれ、権力にとっては邪魔なのである。その運動の頂点は、十五歳くらいの天草四郎をリーダーとした、島原の乱であり、何十日も城に閉じこもって抵抗したのち、ついに投降した。そうした事件ののち、本作の主人公のロドリゴとガルペの、二人の宣教師は、消息を絶った師、フェレイラを探して、マカオ経由で日本に密航してくる──。

 ここに描かれているのは、あくまでフィクションである。ポルトガルからの宣教師が、すらすら英語で話すのも現実離れしている。ポルトガルならカトリックであり、オランダはプロテスタントだから、同じキリスト教とはいえ、少し違っていたろうし、南欧からの「宣教師」たちは、南米では、原住民を非人間的なやり方で洗脳しているのだから、この日本へ来て、逆に迫害されているのは、いったいどうしたことやら?と思ってしまう。

 しかし、隠れキリシタンの伝説はあって、そういう小さなエピソードを、純文学らしからぬ筆致で物語ったのが、遠藤周作の『沈黙』なのであろう。

 そういう話を映画化しようと、二十八年も温め、ここに完成となったのであるが、ほんとうの歴史はどうかとか、日本の僻村の景色にしては雄大すぎるとか、廃村に群がる猫が太っていたとか、そういう話はおいておいて、これはとんでもなくできのよいエンターテインメントなのであろう。

 まず、役者がすばらしい。欧米、日本とも、メインキャストは長身、すらりとした美丈夫が集められている。スパイダーマンのアンドリュー・ガーフィールド、『スター・ウォーズ』カイロ・レンの、アダム・ドライヴァーが、二人の宣教師を演じ、よれよれの衣装に美しい肉体を包んで、苦しみに身をゆがめる姿もさまになる。日本側も、立ち姿が美しい、浅野忠信、窪塚洋介をあて、欧米の二人に決してひけを取らない。

 特筆すべきは、当然、キリスト教徒迫害担当奉行「イノウエ」の、尾形イッセイである。常に笑いを浮かべ、拷問の指揮を取る。このキャスティングは、尾形が、十数年前、ソクーロフの『太陽』で、昭和天皇を演じたのを、きっとスコセッシは見たのだろうと思う。そこには、批評性さえ感じさせる申し分ない昭和天皇が演じられていた。尾形はこの時から、すでに国際派の俳優となっていたのである。

 コンフェッションをしに来る、村のオバチャンの片桐はいりも、結構セリフが多く、相変わらず声を出して笑わせたが、とくに浮いてはいなかった。

 こういう俳優たちの肉体にくわえ、美しい自然のカット(台湾で撮られたそうだが)、そして、人間の精神とはなんなのか?という、クリアな問いの提出をくわえるなら、スコセッシが映画で表現しようとしていることも、おのずと明確である。魅せられ、考えさせられ、まずは極上エンターテインメントに慶賀を表する。エンディングの、音だけの、夏を思わせる「見えない映像」にも、粋な洗練を感じた。

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2016年12月 6日 (火)

【詩】「飯島耕一が染みる朝」

「飯島耕一が染みる朝」

ブラッサイの写真集に書かれた、飯島耕一の文章を読んでから、なぜか気になりはじめた。それで、リビングの扉付き本棚にしまい込んでいた、一九七六年に出た(それは七〇年に出たものの第二版だった)、『シュルレアリスムの彼方へ』という銀色の本を取り出してきた。夥しい本を古本屋やブックオフに売ったが、この本はいつまでも、難を逃れていた。この本はどういう本かというと、飯島耕一と大岡信と東野芳明が、シュールレアリスムについて、いかに無知だったか、しかし、いかに熱中してたか、つまり、無知で熱中していることを、実にほがらかに書いた本である。そして、それだけ、シュールレアリスムの近くにあったと主張する本だ。

ああ、今更ながらに、飯島耕一が染みる朝であるが、とうの飯島耕一はそんなこと、あの世で、想像だにしないであろう。四十年も経てから、深く共感してくれる読者が現れようなどとは──そんな朝だ。

ボードレールが時間のように降ってくる。

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2016年12月 5日 (月)

詩集出しました

突然ですが、詩集出しました。

個人情報露出住所禄雑誌を見て、突然送りつけるようなことはしません。Amazonにもおいてません。ここでしか、買えません。でも秘かに買っても、誰が買ったかはわかりません(笑)。Facebookで発表したものばかりですが、詩集にして初めて見えてくるものもあります。言葉や時間と戯れたいひと向き。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=103861158

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2016年10月13日 (木)

【知りたいあなたのための南スーダン入門】

【知りたいあなたのための南スーダン入門】

1,誰と誰が戦っている?

 大統領のサルヴァ・キール(Salve Kiir)と、副大統領のリーク・マシャール(Riek Machar)が戦っている。2011年に、副大統領のマシャールが、一部の軍隊を率いて、反乱軍を設立した。

2,なぜ危険なの?

この反乱軍は、市民を敵とみなし、乱暴狼藉を働いている。また、この「戦い」が、ほかの地方にも拡大する危険性もある。しかし、最も恐れられているのは、「大量殺戮」(massacre)である。

3,これまでの犠牲者は?

詳しい数字はわかっていないが、国連の調査では、今年の7月までに、300人が死亡、数万人が脱出、高等難民弁務官事務所では、十万人が南西部で反乱軍の兵士たちに包囲された状態にあると危惧している(2016年9月30日付)。

4,最も新しい情報は?

反乱軍を率いる副大統領のリーク・マシャールが、「徹底抗戦」を宣言した。つまり、「新たな戦争」(Nouvelle guerre)と、「ル・モンド」は書いている。

(この写真の記事↓は、副大統領のマシャールが、「健康診断のため」、ハルツームを離れたという題である。内容は、「新たな戦争」の告知)

http://www.lemonde.fr/afrique/article/2016/10/12/soudan-du-sud-riek-machar-quitte-khartoum-pour-des-examens-medicaux-en-afrique-du-sud_5012283_3212.html?xtmc=soudan_du_sud&xtcr=1

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2016年10月12日 (水)

『真田十勇士 』──人は見た目が九割?(笑)(★★★★★)

『真田十勇士 』(堤幸彦監督、2016年)

 もともと舞台劇だったというが、映画の方が断然面白いに違いない。ベースは時代劇であり、考証も外しているわけではないが、思いっきり脱構築している。初めはアニメから始まり、それが結構続くので、「本編はアニメではありません。数分後に実写に変わります」などという「注意書き」まで登場。

 まあ、なんといっても、いきなり、真田幸村がチョーイケメンだったらどーする? ってな設定できた。誰が見てもチョーイケメンで、しかもそれなりの成熟した男となると、そんな俳優、日本にいたかな〜? イタリアならともなく。と思っていると、いたんですね、これが。イタリア映画に出しても恥ずかしくない男。加藤雅也。あ、そーいえば……。そういう人が……。しかし、この人、年取った今の方が、グンといいんですね。それを「利用」した作品。

 顔よし、スタイルよし、で、どうしても「りっぱな武将」と見られてしまう幸村。実際は、優柔不断な男。でも実は、誠実で正直な男。そんな幸村を見込んで、「抜け忍」猿飛佐助(中村勘九郎)が、勇士たちを集める。なかでも、すばらしく魅力的なのが、同じ「抜け忍」の、霧隠才蔵の、松坂桃李。なんか、霧も滴る(?)いい男なのである。忍者のボス(伊武雅人)の娘の忍者、蛍(大島優子)が惚れる。

 徳川家康が豊臣の残党、秀賴の大阪城を攻める、大阪、夏の陣、冬の陣。もうすでに「結末」はわかっている。わかっている「結末」までをいかに描くか。それが「時代物」の手腕である。うーーーん……と唸ったね〜。

 猿みたいな顔の勘九郎が、猿飛で、ベルサイユの薔薇のような髪型のまんまのグレーヘアのイケメン、加藤雅也が幸村で。彼に言い寄る淀君が、ぬあんと大竹しのぶである(迫力ありすぎ(笑))。結局、幸村は淀君を拒絶する。それは武士の「忍ぶ恋」(註:武士道とは?を説いた書、山本常朝の『葉隠』には、「恋の至極は、忍ぶ恋。思い死にすることこそ恋の本意なれ」とある。つまり、死ぬまで、思いを伝えずあの世へ持っていくのが最高の恋だ、と。スタンダールもこんなことは言ってない(笑))を実践しているのか? 大竹の風貌だと、そこんとこが微妙である(笑)。しかし、猿飛は、そういうことを淀君に伝えてしまう。聞いて涙する淀君。同じように、蛍にも、霧隠才蔵の「思い」を伝える。こうちらの方は、猿飛のでっちあげであった。

 しかして(なにが、しかしてだ(笑)!)、真田幸村は、見かけ通りのりっぱな武将なのであった──。しかし、物語はここで終わらない。だって、主役は、勘九郎の猿飛佐助であるから。歴史の教科書に描かれるような「正史」があり、その陰に、忍者の世界があるというのは、なかなかに面白いテーマである(ゆえに、いろいろな小説家が描いてはいるが)。まともな時代劇を期待して来た客は怒るかも知れない(笑)。

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『ジェイソン・ボーン』──甘さ0%、ジェームズ・ボンドの終わり(★★★★★)

『ジェイソン・ボーン 』(ポール・グリーングラス監督、2016年、現代『JASON BOURNE』)

すでに出尽くした感のある「スパイもの」。老舗は、イアン・フレミング原作「ジェームズ・ボンド」シリーズ、と、こちら、ロバート・ラドラム原作、「ジェーソン・ボーン」シリーズ。どことなく名前も似ているのは、ラドラムが、フレミングをパロッたのかも。いずれにしろ、昔のスパイ小説で、電子機器はほとんど出てこない。また、敵は、「ソ連」ではない(笑)。そこをいかに二十一世紀も十年以上過ぎた現代の「スパイもの」として仕立てるか。いま、「スパイ」とは言えば、当然、ネット社会を背景にした「スパイ」。とくに、ハッカー、それに対するセキュリティ、監視社会、国家とビジネスなどである。本作は、スノーデンのCIA暴露「以後」として、暴露と監視をテーマに、再び「悪役」は、CIAに戻って来た。なかでも、その「長」の、トミー・リー・ジョンズ。あれ? CIAにも血の通った人間はいたはず──の、前作、前々作? それが今回、悪の化身のような男が牛耳って、ジェイソン・ボーンを葬る……のではなく、もう一度、「こちら」へ取り込もうとしている。

 そして、世界監視を夢見て、IT企業の最先端にいる、若手起業家(ザッカーバーグを思わせるSNSのトップの設定だが)のインド系(いかにも)の青年。迎え撃つIT得意の優秀な部下に、アリシア・ヴィキャンデル。「コケティッシュな女スパイ」は卒業して、今回、甘さ何処にもない「理系女」(こういう非知な言葉はすきではないのだが、あえて)。これが、例の若手起業家と、スタンフォードで同級生だった、という一瞬の紹介は、なかなかに染みた(笑)。

 さて、主役のボーンであるが、昔の仲間のニッキー(当然、こちらも理系女)に助けられて、おのれの過去の「CIAのマル秘ファイル」を入手。父の死と自分の過去を知る。腕力だけでなく、当然、デジタル機器にも強くて、それを駆使しての戦いである。もちろん、グリーングラス監督ならではの現実感、カーアクション、戦闘あり。今回、アリシア・ヴィキャンデルがどこまで信じられる女かということが焦点だが、「007」のようなわけにはいかない(笑)。甘さ0%、ジェームズ・ボンドは完全に終わった。サイレンが鳴り、テーマ・ミュージック!→「Extream way」(モービー)、私はこれを、前作からiPodで聴き続けている(爆)。

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2016年6月29日 (水)

きてね。

ここは、あまり更新してませんが、こちらのブログで頻繁にやってますので、どうぞお立ち寄りくださいませ。


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2016年1月30日 (土)

『アンジェリカの微笑み』──映画とは何か教えオリヴェイラ逝く(★★★★★)

『アンジェリカの微笑み』( マノエル・ド・オリヴェイラ監督、2010年、原題『O ESTRANHO CASO DE ANGELICA/THE STRANGE CASE OF ANGELICA』)

「オリヴェイラは世界最大の映画作家である」と、蓮實重彦は、『映画狂人、神出鬼没』(河出書房新社、2000年)のなかで書いている。「映画とは何かと問う以前に、この人が撮るものなら無条件に映画だと確信するしかない『映画作家』がマノエル・デ・オリヴェイラなのである」と。

 本作は、2010年、オリヴェイラ、101歳の時の作ということで、とかく、「老齢」という眼鏡で作品を見がちだが、この映画作家は、キャリアの中心となる作品を70歳過ぎてから集中的に撮り、80歳を過ぎても、1年に1作というペースを守り抜いたという事実を知るなら、老齢だからというのはエージバイヤス以外のなにものでもないだろう。

 冒頭からして非凡である。雨の道に車が停まるが、すぐに、死んだ若い女を撮る写真家が登場するわけではない。本職である写真家の写真館の扉を叩くも、人はなかなか出てこない。通りで待っていると、二階に明かりが点き、誰かが姿を現す。しかしその人物は、両開きの窓を開けたものの、すぐに雨だと知り、傘を持ってきて差す。そして、ベランダから、「こんな夜中になんの用ですか?」と言う。年配の女性であった。車を運転してきた者は、「××館の奥さまが娘さんの写真を撮ってほしいと言ってるんです」という。ベランダの女性は、「主人はポルトへ行っていて留守なんです」と答える。「それでは帰られるまで待ちます」「帰るのは明後日なのよ」

 土砂降りの中で、途方に暮れる来訪者。「誰かほかに写真家を知りませんか?」心当たりがないと女性は言う。そこへ、男が通りかかり、プロでないが、趣味で写真を撮っている男を知っていると告げる。二人は車に乗り込み、ベランダの女性は室内へ引っ込み、窓の明かりが消される──。冒頭だけで、これだけのドラマがある。こんな雨の真夜中に、通りがかり、「趣味で写真を撮っている男」=この映画の主人公、死んだ女、しかも既婚者、に恋をしてしまう若い男へと、導いていく人物は誰だったのか──?

 のっけから死臭漂う物語である。死んだ高貴な家の美女(死因も、周辺の事情も語られない)の、死体の写真を撮るなどという行為も、考えてみれば忌まわしい。人は死ねば筋肉はすべて弛緩し、いくら美女とはいえ、美しいままではいられないはずである。しかし、アンジェリカは、いくら半身が起こされたような状態で横たわっているとはいえ、まるで生きているかのように(すでに)微笑んでいる。青年の、イザクという名前を聞いただけで、その館の一堂は、「ユダヤ人!」と、ちょっと引き気味になる。青年が宗教にはこだわっていないと言うと一堂は安心する。

 宗教的な映画である。しかし、それは純粋カトリックでもない。いわば、人が死へ向かう時、精神が必要とする宗教。たまたまポルトガルなのでカトリックだが、もしかしたらイスラム教、仏教でも構わない。

 確かに青年は、アンジェリカの写真を撮り、まるで生きているかのような彼女に恋をするが、同時に、葡萄畑を耕す労働者の写真も撮っていて、それは集団というより、労働者ひとりひとりの鍬を下ろす瞬間の顔写真だったりする。その労働者の写真の間に、アンジェリカの写真を入れて、天上下に吊ったひもに洗濯バサミのようなピンで留めて並べて乾かしている。その写真は、常に、観客からは裏側になっていて白い紙が見えるだけである。その向こうは、丘と川が見下ろせる窓である。

 青年はアンジェリカの夢を見、いっしょに抱き合って空を飛び、(おそらく)アンジェリカの葬られた墓地の鉄扉をつかんで、「アンジェリカ!」と何度も叫ぶ。青年の下宿先の、食堂に置いてあった鳥かごのなかの、下宿の女主人がかわいがっていた小鳥が死ぬ。そして、後追うように、青年も息絶える。ショパンのピアノ曲が、この意味のない物語を際立たせる。われわれは、映画とは何かを知るだけだ(合掌)。

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2016年1月19日 (火)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』──トルコはヨーロッパの北朝鮮か?(★)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』(カアン・ミュジデジ監督、2014、原題『SIVAS

』)

 筋金入りの愛犬家としては、かなり不快な映画である。愛犬家といえど、犬にだけは生まれたくないと、本作以外でも思ってしまうが、本作ほど、犬をバカにした映画もない(怒)! まず、闘犬は、闘うように「仕込まれる」。まるで、古代ローマで奴隷同士を闘わせて血を見て喜んでいる貴族の楽しみが、この古い国家にも残っていると見えた。

 馬も年をとれば捨てられる。小学校の劇は、村長の息子が主役と決まっている。おとなの男たちはマッチョ思想に染まり抜き、かつズル賢さだけはイッチョまえである。土地は殺伐。こんな中で、子供がいかなる純な気持ちを抱こうと、誰もそれを育ててはくれず、希望も芽生えた先から摘み取られる──。闘犬に負けて、死んだと思われた犬はそのまま放置され、やがて骨になっていくのか。しかし、犬は死んではおらず、少年はそれに目をつけ、彼なりの考えで、文明国の少年がペットと育む友情を犬と育もうと「夢見る」が、それは一瞬のことである。まず年の離れた兄が犬に目をつけ、内緒で売ろうとする。それを知った少年は怒りまくる。その怒り方は半端ではなかったが、いずれ、おとなたちの思惑に取り込まれ、ペットは闘犬の運命へと引き戻される。少しの違和を感じた少年も、やがては、どこにでもいるような、非文明社会のマッチョな男になるのだろうか、あるいは、イスラム国のようなものに取り込まれるのだろうか──。

 監督は、イッチョまえに、ゴダールの影響を受けているのだろうか? 手持ちカメラでがんばっている、が、それだけのものである。ゴダールには教養があり、画面は正確かつ美しかった。だから、「アイロニー」を表現し得た。本作には、アイロニーのかけらもない。評論家氏が、「少年のカメラの画面に拮抗しうる眼差し」などと、抽象的な美辞麗句でホメたたえるのを見れば虫酸が走る。

 「犬的」にも、リアリティなし。犬同士が本気で闘ってないことは、尻尾を振っている、首まわりしか噛んでいない(後半身を噛むのは、遊びのルール違反だが、犬たちは遊びのルールに従っていた)、何かを食べさせるシーンは皆無、おそらく、うなり声は、べつのところで採取されたものをあてているのであろう。最も危険な手負いの犬にリード(細ヒモでも)をつけるシーンは省略され、いつしかヒモをつけた犬をトラクター(?)で引いていた。つまり、ほんとうの闘犬でないことはよくわかったし、最後のクレジット、No animals are harmedを見て一安心しても、いかにも犬的に不快な映画ではある。

 最後のいかにもアラブ的な叙情を押しつけるような音楽にも辟易である。

 トルコは、ホメロスを生んだ古代国家である。狭いボスポラス海峡の向こうまで国土は続き、ブルガリアと接している。しかし、ヨーロッパの中心国、ドイツ、フランスから見たら「最果て」である。そういう取り残された国が、観光客のいかなる幻影を誘うのかは知らないが、本編を見るかぎり、私には、どこかの国にさも似たりといった感じがしましたがね。

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2016年1月11日 (月)

『ブリッジ・オブ・スパイ』──「歴史」が心に染みる(★★★★★)

『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2015年、原題『BRIDGE OF SPIES』)

「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少なかれ限定を受けざるを得ない神話だ。歴史は歴史といふ言葉に支えられた世界であって、歴史といふ存在が、それを支へてゐるのではない」(小林秀雄『ドストエフスキーの生活』)

 スピルバーグがどのように「歴史」を描くかに、ずっと注目してきた私にとって、スピルバーグが、他のいかなる芸術的な監督よりも、映画作りに長けていることは知っている。スピルバーグに駄作はあり得ない。淀川長治が、無名のスピルバーグの『激突』を「しかたなく」観るはめになったが、観ているうちに、「こいつ、映画がわかっている」と舌を巻いたことをどこかに書いていた。

 本作で印象的なのは、国家を超えた個人と個人の友情もさることながら、国家とは何かを問い直していることである。とくに、アメリカなど、雑多な人種の移民によって成り立っている国は、いや、仮に単一民族で構成されていると思われている国であっても、その場所を国家として成り立たせているのは、ルール=憲法である。主人公の弁護士は、そのルールを知り抜き、それを武器として「闘い」を進める──。

 一介の保険専門の弁護士でありながら、その交渉力を見込まれて、ソ連のスパイとして逮捕された男の国選弁護人を任され、ひいては、国家間の「スパイ交換」へと引きずり込まれていく──「不屈の男」。

 一見サエない日曜画家風ながら、冷静沈着、凄腕スパイであることをうかがわせるアベル(マーク・ライアンス)。彼はその国選弁護人、ドノヴァン(トム・ハンクス)に引き合わされて、ごく早いうちに、ドノヴァンが、「不屈の男」であることを見抜く。ゆえに、一見並外れたところがない男を、父から見ているように言われ、その結果、その男の不屈性を認めたという、子供時代のエピソードを、さりげなくドノヴァンに話す。

 よき夫であり父親であるドノヴァンが非凡なのは、ソ連で逮捕されたアメリカ人の(偵察機の)パイロットとの1対1の交換ではなく、同時に、東独で逮捕された、アメリカ人の学生をも加えた、2対1の交換の交渉に持ち込むところである。これは、冒頭の、保険弁護士として、いくつかのものを一つと見るという説明が伏線ともなっている。

 「闘い」の舞台は、ソ連本国ではなく、雪の東ドイツ。ブルーグレーの光の中、「壁」に沿って歩くトム・ハンクスに深く感情移入する──。ただ、国家とか個人とかを描いた映画ではない。上に掲げた小林秀雄の言葉をも思い出させる作品である。

 決して観客を裏切ることのない、トム・ハンクスの信頼の演技。かてて加えて、マーク・ライアンスの、イギリス仕込みの芸術的味わい(かつては、『インティマシー』(2000年)で、オジサン、オバサン版『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の関係を描いてみせた、心に残る役者)。「二十世紀」から遠く離れて、じっと雪のように降ってくる「歴史」について考えてみたくなる映画である。

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