« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月29日 (水)

『abさんご』──後半「楽屋」が見えてくるのが惜しい(笑)

『abさんご』(黒田夏子著、2013年1月、文藝春秋刊)

 私は本作を読んで、すぐは、「紫式部日記」のような日本語の清逸な世界を感じさせて、なかなかよいと思った。まず、導入部など、唐突なはじまりがよいし、a地点からb地点という、説明のない抽象性は、言葉そのものの手触りを感じさせて、さすが、蓮實重彦の選んだ作だと思った。まず、蓮實氏は、「日本語を私に教えてくれる作品、どきどきさせてくれるものを望む」と、早稲田文学新人賞の選考委員を務めるにあたって表明していた。それにかなう作品だという印象を持った。

 しかし読み進むうち、書き手がその抽象性に耐えられず、しだいに、物語が「透けて見えて」しまう。これは、幼くして母を失い、初めは家政婦として来た女が父の後妻におさまり、主人公の少女(=私)は、自立を余儀なくされる、ルサンチマンの物語。固有名詞はいっさい使わず、これだけのものが見えてしまうのである。こういったスタイルは、フランスの作家、ナタリー・サロートを思わせるが、サロートなどは、そういう状態で、数百ページを書いてしまう思想の強靱さがある。が、この作者は持続できず、変換可能な物語へと収束してしまう。

 また、横書きの表記はいかにも、現代にかなっているようだが、石川九楊が『縦に書け!――横書きが日本人を壊す』(祥伝社新書310)で言っているように、英語がアルファベットが横に、筆記体で続けて書けるような生理を内包しているように、日本語は、縦に続けて無理なく書けるような生理を含んでいる。それをことさら、(PC画面ではない)紙の上でも横に書くということは、アルファベットを縦に書くようなものだ。

 それが、みやびな文体と相矛盾して、その矛盾が「新しいスタイル」と言えるのかどうか。この著者は、実は、この「デビュー作」以前に、おそらく自費出版ではないかと思われる著書、『累成体明寂』があり、たまたま、早稲田文学の新人賞の選考委員を、蓮實重彦が担当することになり、おそらく周辺ではすでに知られたヒトだったのが、それを「狙い撃ち」したのではないかと、私などは推測する。まあ、だからといって、慶賀すべきことに変わりはないのだが……

 しかし、このヒト、その後の作品は、どのように書いていくつもりなんでせう(笑)?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月27日 (月)

『半島』──ジュリアン・グラック+古井由吉

『半島』(松浦寿輝著、文春文庫、2007年7月刊)

 本作の題名を見て、すぐに思い出されたのは、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』である。『シルトの岸辺』も、『半島』のように、「拝命」、「海図室』、「会話」など、小題が立てられている。イタリア自治都市を思わせる架空の国オルセンナの、シルト海を隔てた敵国ファルゲスタンを防諜する命を受けた名門出の「私」の、カフカ的とも言える不条理の物語。この小説が、『半島』の作者の脳裏にまったくなかったとは思えない。それと、『半島』の作者があこがれる作家、古井由吉の、輪郭のぼんやりしたような世界の、なまめかしい描写。このふたつが、この作者をして、『半島』の筆を進めさせたと考えられる。

 だが、残念ながら、本作は、グラックの強靱な思想も、古井由吉の艶めかしさも持ち得なかった。ただ、文庫解説者の、「東京大学教授」山内昌之の、まとはずれな門外漢の賞賛を得たにすぎない。あ、「読売文学賞」も。それにしても、この著者は、同賞といい、詩では高見順賞、小説では芥川賞、仕事は東大教授(今は退官されたが)、およそ文化に携わる者のあこがれる、ほとんどすべてを手に入れていて、それで、『半島』の主人公が、大学を辞め、人生をどうしたものか、憂えているような中年男と言われても、ほとんどの読者は共感を持ち得ないと思う。それになにより本作には、書く喜びが感じられない。作者自身が、こんな世界を信じていないのではないか。グラックの書く世界は架空ながら、リアリティがある。しかし、本作は、あまりに抽象的すぎて、絵空事そのものである。作者はなんの実感もないまま書いたのではないか? 実感とは、かつて訪れた外国の都市の、細部を知識として知っている、ということではない。また、個人的な思い出でもない。おのれの腹のうちを見せるという覚悟である。私は好みではないが、少なくとも、松浦の「師匠」、古井由吉にはそれがある。それは、某女性作家との色恋沙汰ぐらいどーってことないと呑み込んでいく居直りなのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月26日 (日)

『陛下』──力作だが、「陛下」がファッション

『陛下』(久世光彦著、新潮文庫、1996年刊) 

 題名に関心を持って買ってあって、長い間「積んで」あったが、このたび開いて読んでみた。13年ほど前に出た新潮文庫版である。久世光彦の小説は以前にべつの作も読んで感心した(だが題名は忘れてしまった(笑))ので、今回も期待を持って読んだ。だが、ワタシ的には期待外れであった。のっけから始まる、昭和10年頃の東京郊外の歓楽街の描写は、「見てきたよう」で、すばらしい。

 そう、この「見てきたよう」が、この作者の長所であり、短所である。物語は、2.26事件へと至る、青年将校と娼婦を、男女それぞれの主人公に、この恋人たちの、内面のありようを、生い立ち、当時の風俗を交え、実際上の事件をうまくはめ込み、描き出している。題名にある、「陛下」は、昭和天皇のことである。主人公の青年将校、剣持梓の、幼少時からの夢にしばしば現れるあこがれの人物。それは、恋人となる娼婦、弓へも伝染する。

 風俗は「見てきたよう」。しかし、肝心の「陛下」は、抽象的なままである。いくら執拗に描いても、具体的姿とならない。アンティミティー(親密性)を欠いている。つまり、この青年将校にとって、「陛下」などどうでもいいものなのである。というか、作者は、そこまで「陛下」を信じられない。それがこの作品の最大の瑕疵にして致命的な瑕疵である。

 肝心の「陛下」がファッションなんである。困ったことに(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月24日 (金)

『スマホは捨てろ!』──ビジネス書として読むな!

『スマホは捨てろ!』(鈴木進介著、扶桑社、2013年5月刊) 

 確かに、バスや電車の中で、バス停で、カフェで、スマホを片手に、惚けたような表情でスマホに見入っている、「老若男女」は、ハタから見るとバカそのものに見える。もはや、まっとうなビジネスマンは、その中に入っていないと私は信じる。本書の題名はすばらしい。それは、ビジネス書というより、上記の日本人すべてに「贈る」言葉だ。確かに、海外でもスマホの普及率は高いが、たとえばヨーロッパなど、駅などで、ほんとうに情報が必要な人が使用しているのであって、ヒマがあれば、場所を選ばず、ぼーっとスマホの画面を見つめながら、指をすべらせているのとは様子が違う。

 本書は、市場価値を高めるためにサラリーマンが実践したり、目指したりしていた、英会話、ファイナンシャル・プランナーなどの資格試験、MBA(ハーバードなど、トップ10以外の)などが、すべて無駄であることを説いている。考えてみれば、あたりまえなことなのである。会社で出世できてない「あなた」が、それらの勉強だけで、市場価値が上がるわけがない。それより社内の価値を上げなさいと。

 しかし、皮肉なもので、では、その通りだと、本書の通りやっても、抜きんでることはできないだろう。おそらく本書で定義されている「無難な人々」が、同じように動くからだ。

 しかし、本書には、おそらく著者も気づいていない美点がある。それは、人間性への再認識への促しであり、絵空事のような「出世」に踊らされていた一時期のパラダイムの終わりを、「はからずも」告げているからだ。もしかしたら、題名は、編集者がつけたものかもしれない。「スマホは捨てろ」。そこのオジサン、オバサン。ついでに「つけ睫毛も捨てろ」。そこのエクステ睫毛のオネーサン、オカーサン。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月23日 (木)

『中国の隠者』──1973年岩波発の驚愕の「お手軽本」 のアンコール復刊 

『中国の隠者』(富士正晴著、197310月岩波新書初版、20134月復刊)

 

「中国の隠者」という題名は確かに関心をひく。しかし、著者は中国の専門家ではなく、吉川幸次郎(中国文学者)や貝塚茂樹(中国歴史学者)の文献を引用して、私見(分析的というより、空想的なもの)をあれこれを書き連ねているだけ。一応、「アンコール復刊」の一冊で、そういう本は、なかなか中身の深い本があるが、こと本書にかぎっては、今のお手軽新書と全然変わらない。昔(1973年)にも、こういう「お手軽本」が堂々と、しかも「岩波」から出ていたというのは驚きである。漢書に関する書籍というと、漢字も多く、中身もありそうに見えるからか。こういう本で困るのは、テキトーな史実を書かれることである。

 曰く、「その証拠に、魯迅だって、毛沢東だって、大の君子ぎらいではないか。儒者ぎらいといってもいい」。されど、『論語』は中国では避けて通ることはできず、あの毛沢東でさえ、おろらく暗唱していたであろうと、吉川幸次郎は『「論語」の話 (ちくま学芸文庫)』で書いている。←この本の方を、強くオススメします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月17日 (金)

『橋下徹氏とその支持者たちの「国際常識」欠如に関する考察』

>民主党の細野豪志幹事長が16日の記者会見で「極右政党ということを認めたようにしか見えない」と批判するなど、維新は窮地に陥ろうとしている。

上記は、民主党の細野氏の見解だが、NYTimesのブロッガーも、実際にそう書いている。

「He's known for provocative right-wing statements,……」(「彼は挑発的な右翼的声明で知られている……」)

http://takingnote.blogs.nytimes.com/2013/05/15/did-japan-need-comfort-women/

>社民党の福島瑞穂党首ら女性議員11人も同日、そろって記者会見し、撤回と謝罪を求めた。橋下氏はこれに先立ちフジテレビ番組に出演。風俗業の活用を勧めた発言について、「表現の拙さがあった」「あまりに国際的な感覚が乏しかった。(発言が)買春、売春と受け取られたことは反省すべきだ」と謝罪した。(mns産経ニュース2013.5.16 23:01より)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130516/stt13051623350017-n1.htm

これは、まったく世界的趨勢としてもこの通りで、「国際的感覚」というより、「国際的常識」がなさすぎるにもほどがある。しかし、ことひとり、橋下氏だけの問題ではなく、ブログやTwitterなど、ネット上で橋下氏ら「右翼」グループを擁護している人々にも言えることである。

一応、総理である、安倍首相は、「国際的常識」を持っていると見えて、橋下氏に反論している。

しかし、それ見たことかと、橋下氏を切り捨ててもオシマイにしてもしょうがない。

まず、第一に、「従軍慰安婦」という「婉曲表現」である。これは、NYTのブロッガーも、

「the Japanese euphemism is ーcomfort womenー for the Japanese Army」(日本的な婉曲表現ではー慰安婦ー軍隊のための」)と書いている。そして実態は、「wartime rape and sexual enslavement」(「戦時のレイプと性的奴隷」)という表現を使っている。私もそうだと思っていたので、やはり欧米でもそういう認識かと思った。

この認識は、「世界のBBC」も、同じである。

http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-22519384

BBCの場合は、記者の個人的ブログではなく、公式に記事に、

「Some 200,000 women in territories occupied by Japan during WWII are estimated to have been forced to become sex slaves for troops」と書いている。

つまり、世界的なメディアの認識として、橋下氏の発言は、「戦争に売春はつきものだ」(石原慎太郎氏の意見であるが、さすが「作家」なので、表現がうまい(笑))どころではなく、「戦時に、レイプは必要だった」ということになるのである。常々、NYTとかBBCを読んでいれば、そういう感覚も育つだろうが、まあ、なんか国内の駆け引きだけに終始した結果なんでせうか。確かに、フランスにもドイツにも極右はいるが、「レイプが必要だった」と「堂々と」言った(ことに、すでになっている)政治家はいない。

この錯綜が今後どうなるか、私は知らない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月14日 (火)

『リンカーン』──やはり凡庸でないスピルバーグ

『リンカーン』スティーブン・スピルバーグ監督

 リンカーンというのは、昨今もいろいろ、映画の題材になっている。吸血鬼と戦ったり(笑)。しかし、スピルバーグが描けば、クサい伝記映画ではない。確かに、公開前の日本向け挨拶では、「彼はとっても偉大なひとなんです」って、声を大にして言っていたけど、そのわりには、エラさはそれほど強調されてなくて、ただただシルエットのようなダニエル・デイ・リュイスと、南北戦争終結前に、憲法修正第13条を可決させるまでの、反対派との攻防を描いていて、志高いものにしあがっている。

 しかし、ここで問題なのは、共和党がまるで「正義の味方」みたいに描かれていることと、「奴隷解放」によって、黒人がすぐに人間的な地位を得たわけではないことだ。とくに、その後、長い人種差別の戦いの歴史が待っている。また、リンカーンは、北部のエリートたちの経済効果を考えて奴隷解放をしたのだという事実も忘れるべきではないだろう。しかし、そこまで描き込んだら、かなり複雑になってしまうし、スピルバーグの政治的立場は、まあ、芸術にはカンケイないとしておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月13日 (月)

『文学界2013年6月号』──もはや文芸誌は出版社のPR誌

『文学界2013年6月号』(文藝春秋)

 ひさびさに新作の小説でも読んでみようと本書を購入したら、(当然のことながら、というべきか)「村上春樹特集」であった。都合のよいことに(笑)この号で、発表される「新人賞」は、今回「受賞作なし」。雑誌の発売日からして、本誌に、村上の新作の論考を寄せている面々は、文面にはおくびに出してないが、4月12日の発売以前の、「トップシークレット期間」(笑)に、『多崎つくる』を読んだに違いない。そういう状況にあれば、『つくる』を酷評はさておくとしても、批判的なことを書けるはずもない。まあ、メンツも「それなりに」揃えてあるわけですが……(笑)。論考は以下の順である(長さは、400字詰換算、20枚から50枚程度と推定される)。

 沼野充義→「傷」「巡礼」の検証なく、書かれてあるままに「おごそかに」受け止め、その書かれ方には、なんら疑いを挟むことなく、まるで世界の古典を解説するように解説していく。文庫解説な文章(笑)。

 内田樹→あろうことか、村上春樹と上田秋成を同列に並べ、無理矢理共通点を見出している(笑)。この「批評のスタイル」は、「60年代の批評理論スタイル」なんだそう。1行目に、「小説を論じるときに『主題とは何か?』というような問いかけから始まるアプローチはずいぶん時代遅れのものだ」と、「60年代の批評理論」を援用。でもサ、60年代って、いったい何年前? この論考は、(あこがれの村上春樹の新作がひとより先に読め、しかも、それについての文章も書かせてもらえることになって)うれしくて舞い上がったのか、文章自体が支離滅裂。

 鴻巣友季子→あろうことか、村上春樹とラブレーを同列に並べ、以下は、ゲームの解説本のように、延々と「読み解いている」。

 鈴村和成→あろうことか、村上春樹と谷崎潤一郎を、「同等」の作家として取り扱い、谷崎と村上が、私生活で移動した地域などを解説(それが文学的に、なにか意味があるのか)。いちばん長く、50枚くらいなのかな~?

 上記の面々に共通していることは、村上春樹を、いっさい批判してはならない「世界的な大作家」として扱い、かつ、『多崎つくる』を、厳粛に扱われることになんの疑問も感じない、大傑作として扱っている。
しかしながら、すでにおかしいのは、歴史に残る古典さえ批判されることはあり得るのに、ここにはその余地はかけらもないことである。

 いまの文学界とは、そのようなものであり、よって、「新人賞は受賞作なし」でも、しかたないのかな~って状況。

 まあ、まっとうな文学者なら、『多崎』などは、批評の対象にはしないと思うけどね。

 上記の人々は、「悪魔に魂を売ってしまった」証拠をここに残しているんですね(笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月10日 (金)

懲りないのは村上春樹だけじゃない(笑)@平成のマウス絵師

 この画像を作製したのが、すでに6年前……「最後にしてくれ」と思ったのに、アーサー・ヒルと組んで、老老コンビの題名ど忘れ(笑)新作がまた公開される懲りないスタローン(66歳→70ぐらいかと思ったら、意外に若い(笑))である(世界の趨勢にはなんの意味も影響もないんですが……(笑))。
"Rocky, please...."give up"....
Rocky

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »