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2013年6月16日 (日)

『6月16日の花火』──やはり学者(悪い意味で)

『6月16日の花火』(丸谷才一著、1986年、岩波書店刊)

 本日は、「ブルームズデイ」。つまり、ジョイスの『ユリシーズ』の物語が展開される1日。1904年6月16日、この日1日だけを描いています。Kindle版の「ジョイス全集」の『ユリシーズ』には、この日、ジョイスは、のちに妻となる、ノラ・バーナクルと初デートをした。と、よけいな情報まで載せています(笑)。

 どこかエラそうな丸谷才一の本作、かなりの年月積ん読状態でしたが、題名に惹かれて、なんとなく本日繙いてみました(なんで、「花火」かというと、世界のジョイスファンがこの日、花火をあげて、お祝い(なんで?)するからんです)。ジョイスの『ユリシーズ』について、よほど興味深いことが書いてあるのかなと思いましたが、そうでもなかった(笑)。この人、卒論だったかが、ジェームズ・ジョイスで、修士でもあって、一応、ジョイス学者なんです。ただ『ユリシーズ』を訳してたわけじゃなかったんですね(笑)。でも、その前は、伊藤整が翻訳紹介してます。それを読んだのでしょう、丸谷クンは。で、その伊藤整は、これからのわが国の小説は、「意識の流れを重視する小説だ!」と言っているんです。でも、この「意識の流れ」という概念を提唱したのは、ヘンリー・ジェームズの兄の心理学者のウィリアムズ・ジェームズなんです。

 で、小林秀雄が、それに反論しています。「なにが、ジョイスだ。意識の流れだ。そういうものも、意匠にすぎんのだ!」(長くなるので、このあたりはべつの機会にします)。当然、小林秀雄は、1922年に出版された『ユリシーズ』を、仏訳で読んでます。なぜ、仏訳だったのか? 英語の原書が入手しにくかったのか? 伊藤整の日本語訳を読みたくなかったのか(笑)。この伊藤整の系譜は、おそらく連綿と、丸谷才一に受け継がれ、その後、ジョイスと聞くと、やたら特別扱いして奉る傾向の日本人の文学愛好家に受け継がれているようです。

 小林秀雄は、「学者はだめだ!」と言っている。そして、まさにその意味で、丸谷才一は「学者」であることが、本書を読むとよくわかります。とりわけ、エドモンド・ウィルソンのジョイス論で、『ユリシーズ』の結末の仄めかしとして、

 スティーヴンがこの出会ひ(ブルームとの)の結果として、ダブリンを去り、『ユリシーズ』を書くことである。

 と、書いているのにけちをつけ、「スティーヴンは『ユリシーズ』の作中人物であって、作者ではない」なんて、書いている。マジかよ?と思って、よく読んでみましたが、大まじめのようです。つまり、ウィルソンが仄めかしていることは、プルーストの『失われた時を求めて』と、同じ構造を言っているのであるが、どうもそれに気がつけないようであった。『失われた……』は1927年に最終巻が出て、丸谷才一は、1925年の生まれで、その後、日本にはきっとなかなか入って来なかったんでしょう。そして、この丸谷の論文は、1982年に「すばる」に発表されています。いくらでも、訂正の機会はあったと思いますがねえ……。というわけで、それから先、すっかり読み進む意欲をなくした私です。さういへば、『横しぐれ』も大したことがいはれていたわけではなかつたな、と、急に旧かなづかひになつたりして……(笑)。

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