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2013年7月

2013年7月25日 (木)

『銀河鉄道の彼方に』──賢治からごっそりいただいた作品

『銀河鉄道の彼方に』高橋源一郎著(集英社、2013年6月刊)

 本作が「本歌」としている、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、勤労少年ジョバンニの、ほぼ心象風景といっていい世界を、賢治の生きた日本の東北の村を、どこか、ヨーロッパチックに、さらに言えば、イタリアチック(ジョバンニなどという名前がイタリア名である)に仕立てたものである。けれど、子ども時代の心の動きは、リアルなもので、その昔、どこにでもあり得た、「子どもの水死」を、痛々しいまでの透明感と美しさで描いている。この物語を読んだら、人は、いてもたってもいられず、なにか、自分で、自分の物語を紡ぎ始めてしまうかもしれない──。

 日本の職業作家である高橋源一郎は、そういうものを十分承知のうえ、賢治が死んで、この世にいないことをいいことに、そして、世間の読者が、思ったほど原作を読んでいないことをいいことに、この作の魅力をごっそりいただいて、あとは、勝手な、今風の話題を支離滅裂(コラージュという、言い訳もできるが)に綴り合わせ、「メタ小説」に仕上げている。

 事実、冒頭数ページは、『銀河鉄道の夜』まんまである。また、本書の厚さに、そそっかしい読者は、「大作」と信じてしまうが、550ページほどある本ではあるが、400字詰原稿用紙にして、800枚あるかどうか。後半へいけば、頻繁な行替え、かなりの空白が目立ち(笑)、なんと、活字も、劇画のようにでかくなっているページも何ページもある(それらのページは、50字くらいしか入っていない)。私は、この作者に、何度もはぐらかされているが、それでも、今回もむなしい期待を抱いた。冒頭が、「まんま」なら、せめて最後に、もう一度、G**が現れて、原作を「脱構築」してくれるのではないか? しかし、毎度の、(ここだけは)日本文学的感傷っぽい終わりである。終わりは、「宮本輝」である(笑)。なんでか知らないが、毎回、こんなである。たぶん、この作者の体質だろう(笑)。なるほど、「メタ小説」なので、途中、「原稿を書く私」も出てくる。しかし、それは、クサい物語に内包されてしまうので、ほんとうのメタなのかも怪しいものである。

2013年7月24日 (水)

内田樹氏のコラム「複雑な解釈」(「朝日新聞」2013年7月22日付東京版朝刊」)に思う。──それは、そのとおりなんですけど……。

 Facebookの友だちリンクを辿っていった先の、「友だち」じゃない人が話題にしていて、何人もが「そうだ、そうだ」と賛同していたので、内田樹氏が、「朝日新聞」の22日付朝刊だかに寄稿したコラムを、「朝日」はとってないので、デジタル版まで読みにいった(要「登録」)。

http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307220692.html

 論旨は、今回の参院選で多くの国民は、自民党、公明党、共産党など、「一枚岩」と考えられる党に投票したが、それは、メディアが騒ぎ立てる「ねじれ解消」を意識し、即効性のある党を選んだ、まるで、ビジネスにおける選択のように。しかし、本来、民主主義とは、「ねじれ」に、歯止めをかけるものだ。だから、民主主義の根幹であるのに、子孫のための将来より、今がよければよいという選択をした、と、内田氏は見る──。 と、まあ、だいたいそんなことであって、この結論(「ねじれ」こそ、民主主義の本意である)には、そのとおりだと言わざるを得ない。しかし、気になったのは、そこへもっていく「手法」、分析のしかたである。そもそも、自民党って、「一枚岩」なのだろうか? という疑問がある。民主党の基盤を作った小沢一郎氏が出てくる以前から、さまざまな考えや立場の政治家たちを内包した党ではなかったか。まあ、それはいいとして、今回の選挙結果が、人々が、「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を求めた結果だともしているが、果たしてそうだろうか。

 私は、「圧勝の自民党」と、「躍進の共産党」の意味するものは、「貧富の格差」が選挙結果に出たのではないかと思う。確かに、民主党は、党内の結束がうまくいかず、選挙民に、くっきりとしたイメージを与えることができず、それが「歴史的敗北」の一因を作ったのかもしれないが、これは、中流層がそれだけ薄くなり、富の二極化が著しくなっているせいではないのか。老いも若きも、貧乏人は、共産党の具体的な施策に頼み、リッチピープルは、アベノミクスでさらなるリッチを目指す──。それにしても、「圧勝の自民党」の数を見れば、それほど金持ちがいるはずはないのだが、それは、「リッチを夢見る」人々(自民党に投票した人々の大部分、ということもできるが(笑))も含んでいる「宝くじ現象」ではないのか(笑)──。

 と、まあ、こんなふうに分析できるわけで、内田氏の分析方法は、まるで、日本国民が「一枚岩」(=ビジネスマンのように思考する中流で、それが薄くなりつつあることを露わにしたのが今回の選挙)の設定である。つまり、状況分析は私の考えと真逆である。だから、それはそのとおり、と思いながら、どこかに危険な匂いを嗅ぎとってしまうのである。

2013年7月20日 (土)

『現代思想』2013年7月号「特集ネグリ+ハート」──編集部員はほんとうに「思考」しているのか?

『現代思想』2013年7月号「特集ネグリ+ハート」(青土社)

 フランスの「現代思想」家、フーコー、ドゥルーズ、デリダなきあと、「舞台」は、イタリアに移ったかに見える。なるほど、イタリアの「現代思想家」の方が、より身近で、コンテンポランな感じがする。その百花繚乱の「イタリア現代思想家」のなかでも、アントニオ・ネグリは、主張が、「日本人にわかりやすい」。キーワードは、「マルクス主義」、「民衆」、「帝国」などである。その「ネグリさん」が、この春、日本を訪れ、3.11以後の、マルチチュード=民衆の、反原発などの運動を観察していったようである。そのインタビューや、(私は知らなかったが)フクシマの草の根女性隊を牽引しているらしい、上野千鶴子センセイの講演の原稿などが載っている。ネグリは、日本を、「原子力国家」と規定し、その権力は、外部へというより、内部に向かうと指摘しているところは興味深い。しかし、である、なんで、わざわざ、「外国の思想家」に、日本の今の状況を分析してもらわねばならないのか。また、上野センセイの、草の根の支持はいいけれど、いつも「女」という既存の枠内でものを言っているのが気になる。私は決して保守主義者ではないが、今さら、「マルクス主義」でもあるまい。かつては、スルドイテーマを提示していたような気がする本誌『現代思想』も、どうも安きに流れているのではないか。それに、活字が小さすぎる(笑)!

 日本の今の状況を「思想」で問うなら、たとえば、古在由重が、古い岩波新書の『思想とはなにか』で問題提起しているように、

 「一九六〇年の五月一九日から一カ月あまりにおよぶ安保条約改定をめぐっての歴史の激動。これこそまさにこのような創造的な日々だった」

 「五月一九日から二〇日へかけての深夜、政府とその与党は衆議院に警官隊をひきいれ、この力をかりて悪評たかいこの条約を強行採決した」

 ちなみに、その時の、首相は、現首相の、祖父、岸信介である。

 少なくとも、日本の「現代思想」の政治的局面、あるいは、ネグリ的な思想家を呼ぶなら、そこから、思考を始めるべきではないか? 外国の運動家のオハナシばかり聴いている場合ではない。

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