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2013年12月30日 (月)

『言葉と歩く日記』──真の作家であるためには最終的にひとつの言語を選ばなければならない

『言葉と歩く日記』(多和田葉子著、岩波新書、2013年12月20日刊) 

  小林秀雄は「作家志望の諸君へ」と題するエッセイで、「少なくとも二カ国語以上の外国語に習得すること」という条件を挙げていたように思う。また、吉田健一は、ケンブリッジに入学したものの、担当教授から「文学をやりたいのなら、日本へ帰るべきだ」と言われ、19才で帰国し、アテネフランセに入ってギリシア語などを勉強した。英語で詩集を出し、エズラ・パウンドに高く評価された西脇順三郎など、外国語に達意な日本の文学者は数多い。しかし、彼らは、いずれ、ひとつの言語、それはたいてい母国語になるが、を選び取り、それを深めている。また、深めるための外国語でなければならない。

 二カ国語をスイッチングしながら作家活動をした作家としてすぐに思い出すのは、アイルランドのサミュエル・ベケットであり、ベケットは、ゲーテの訳も、南米詩人の訳もあるので、おそらく多言語に通じていたのだろう。これらの偉大な作家、詩人に比べると(比べる方が悪いのかもしれないが)、多和田葉子のやっていることは、ただの「外国語ができない読者への脅し」に見える。私はあなたたちとはちがって、ドイツ語もできるのよ!それで文学賞もとっているのよ! それが、どーした? である。

 「熊の手をいう言葉がドイツ語と日本語ではちがう」──こんな例など、各外国語と日本語で、枚挙にいとまがない。この「日記」には、カフカなどの作家も多く言及されているが、それらの作家に対して、深い洞察があるわけではない。言語に対する意識もとりわけ高いわけではない。ただ、三十年もドイツに住み、仏語でいうところの、déraciné(デラシネ、根無し草)となった著者が、おめでたくもそれに気づかず、表面的な言語遊技に興じ、かつ、ドイツ語で小説が書ける、そのことのみで尊敬してしまっている編集者に本を出してもらってその気になっているにすぎない姿、それが本書である。なにかあるかと期待して買ったが、今回もなんらインスパイアされることはなかった。(しかし、ドイツ語には、、déraciné(デラシネ) にあたる概念はないのかな〜?)

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