« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月27日 (月)

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著)──動き続けろ!

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著、2013年10月、河出書房新社刊)

 確か、「現代思想」の哲学者の中では、「動き続けろ!」という思想の方が重きをなしていると思われる。そこを、あえて、「動きすぎてはいけない」という言辞を持ち出してくるのは、それだけで、すでに、文字通り、「反動」である。

 一時期、新しがりの若者の間にはやった「フランスの現代思想家」が、またぞろ「亡霊のように徘徊しだした」というべきか。読者は、あの東浩紀のデリダ論(だかなんだか)『存在論的、郵便的』から15年も経っていることに留意すべきである。またこんなことを書く若者(って、35才くらいであるが)が登場したということは、浅田彰も東浩紀も、なんの意味もなかったということである。

 確かに本書の、「序」である「切断論」は、よくまとまったドゥルーズ論になっているので、へたな新書の入門書より、こちらの方をリファレンスとして読みかつ保存しておいた方がいいかもしれない。

 本書では、アガンベンなどのイタリアの現代思想家にも多少触れている。ドゥルーズが「ポストポスト構造主義」なら、その先は、どうも、イタリアの方に流れているようである。しかし、本著者を生んだ、東大ー京大アカデミズムの磁場は、フランス語を中心とするフランス哲学界にあるようだから、哲学を学ぶには、まずその言語に通暁しないといけないとなると、イタリア語系の学者が手薄という事態がある。それにしても、デリダ、ドゥルーズというのは、本国より、日本で異常な人気らしい。それでまだ、本書のような本が流通できるのか?

 これらの学者たちは、だいたいは、外国の哲学者の「解説」、せいぜいが「解釈」で、独自なオリジナル思想というようなものはない。ドゥルーズの思想の核として、一方に、ベルクソン、一方にヒュームがあるそうだが、この程度の思想なら、小林秀雄の思想の核にだってベルクソンはあるし、吉田健一だってヒュームを意識していたと思われる。もっと日本の「思想家」に眼を向けたらどうかね? 本居宣長とか。でなければ、日本人として、真の新しい思想の形成は難しいのでは? ……などと、田母神俊雄氏みたいなことを言ってしまった(笑)。

 第1章「生成変化の原理」に紹介されている、中島隆博による「荘子」とフランス思想の比較の紹介も、新しい発見のように書かれているが、ドゥルーズ以前に(というべきか、1965年に)、レーモン・クノーが、「青い花」という小説に取り入れている。

2014年1月24日 (金)

『「考える力」をつける本』──ズレまくり

『「考える力」をつける本』(轡田隆史著、三笠書房、2013年9月刊) 

 目次をざっと見て興味を引かれたのであわてて買ってしまったのだが、ゆっくり「読もうと」して開いたら、大きな間違いに気づいた。

 筆者は、現在なら77才、17年前の60才のとき、新聞社の編集委員としてコラムを書いていた。その経験で、なにか名文を書いていたような気になったのか、そういう調子で書かれた本だった。

 文体は、いわゆる新聞記者のそれ以外の何ものでもない。定年すぎても、論説委員になって新聞社に残れる「記者」は、どういう政治的手腕を使うのか? 私もフリーで、新聞のコラムは何年も書いた経験があるが、新聞のコラムというのは、一回こっきりで完結するものである。つまりそいうスタイルの思索しかできず、また、息の長い文章を書く力はつかない。本書の文章がいい見本である。17年も前の話題の人物、テーマなどが平気で出てくるが、それを図々しくも2013年に通用すると思って、「まえがき」や「あとがき」を、自慢たらたらに書いている。これがまた、ズレまくった記者の証拠である。

 まっとうな文章を書きたかったら、「新聞記者」は辞めることだと思う。

 本書はリメイク本であるが、かつて100万部も売れたというのは、ほんとうなのだろうか?

 帯に、「白取春彦氏が『アタマというものは、こう使うものだ』ということを教えてくれる最高の知的実用書」と推薦文を書いているが、白取氏の本はそれなりにためになると思っていたので、がっかりである。氏の信用度も落ちる。

 悪いけど、本書には、2014年に通用する情報は、ひとつもない。

2014年1月10日 (金)

ウンベルト・エーコ『歴史があとずさりするとき』──翻訳(リッカルド・アマデイ)もすばらしい!

『歴史があとずさりするとき』(ウンベルト・エーコ著、リッカルド・アマルデイ訳、2013年1月岩波書店刊)

 2013年の初頭に刊行された本書に集められたエッセイは、2000年から2005年のものと、少し古いが、目次を見ると、興味尽きない話題が満載である。ビン・ラディン、ダン・ブラウンなど、話題の人物についての言及もあって、しかもそれがまったく古さを感じさせない。よくあるジャーナリズムの本のように、話題性だけで底が浅いということもない。何度でも読める本質的な洞察に満ちている。しかも、今回、訳がとてもよいように思う。というのも、訳者の名前と経歴を見れば、イタリア人ではないかと思われる。最近Facebookなどでも日本語の達者なイタリア人はまま見られるが、本書の訳者は、まさに達意の日本語。エーコの思想がびんびん伝わってくる。

2014年1月 3日 (金)

『インフェルノ』──シナリオの作り

『インフェルノ』(ダン・ブラウン著、越前敏弥訳、角川書店2013年11月刊)

 

 ダン・ブラウンは、テーマを選ぶのに何年もかけるという。テーマさえ選べば、それだけである程度の読者をつかむことができる。世界中の読者も舐められたものである。本作の舞台である、フィレンツェには一昨年に行った。街は、この小説に書かれた通りではない。そう、すでに、それからして、映画である。まず、この小説の冒頭に出てくる、ヴェッキオ宮が見えるような病院はない。それにしても、小説の作りがまるでシナリオそのものなのには、がっかりである。トム・ハンクスの顔がすぐ浮かび、お約束どおりの美女がからんでくる。お約束通り、歴史的事実にからんだ「組織」のようなものが出てくる。著者の夫人は、画家で美術史家なので、そういう知識はてんこ盛りだが、それだけ、という感じもする。だが、今回、さすがに、映画化がないだろう。あっても、三流以下の監督作となろう。

 ウンベルト・エーコが、『歴史が後ずさりするとき』(岩波書店)というエッセイ集で書いているように、『ダ・ヴィンチ・コード』に書かれた事実もでたらめだったようだ。しかし、本作は、その『ダ・ヴィンチ・コード』より、さらに文章の質が落ちているように思われる。

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
フォト