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2014年2月

2014年2月26日 (水)

『100語でわかる西欧中世』──ペダンチックなトリビアの隘路

『100語でわかる西欧中世』(ネリー・ラベール、ベネディクト・セール著、高名康文訳、文庫クセジュ 988、2014年2月19日、白水社刊)

 クセジュ文庫のシリーズである、「100語でわかる」という邦題そのものに、まやかしがある。この題名からは、入門書によくある、「かんたんにその世界がわかる」というニュアンスがある。しかし実際は、本書を読んだところで、「西欧中世」なるものが、一般読者に明確になるものではない。それこそ、専門の学者でなければすぐに入れない、あるいは、必要ない知識で溢れている。しかし、それも「正確」であるなら、まだ何かの役にたとうというものであるが、本書はその正確さすら保証しない。

 まず、西欧における中世とはなにか、その定義についてすら、正確ではない。それは、ごく簡単に言ってしまえば、ギリシア、ローマの古代が、北方の蛮族によって破壊されつつも、キリスト教によって統一されたのち、ルネッサンスの直前まで続いた時代である。しかし、本書には、ルネッサンスに関わっていそうな「単語」も選ばれている。西欧中世を知るなら、まず、キリスト教について知らなければならない。それを通り越して、いきなりペダンチックな「言葉」を並べられ、歴史的でもなく、文学的でもない、その両方であると「著者」は主張するが、結局は、どちらへも逃げられる曖昧な「エクリチュール」の連鎖である。

 「西欧中世」を、フランスだけで、かたづけることがどだい無理なのである。ここには、「イタリア」も「イギリス」も抜け落ちている。まさに、「専門の研究者」以外に、本書はなんの役にたつというのだろう。

 私が住んでいる街(福岡)のジュンク堂においても、「文庫クセジュ」の場所は、お店の人に聞かなければわからない場所にある。もうこのシリーズの存続は無理があるのではないだろうか? それが証拠に、本書の訳者も書いているように、かつてはその分野の碩学が執筆していたものであるが、本書は、若手の女性研究者二人である。一人は歴史学、一人は文学であるというが、どちらも、一般読者にはどーでもいいようなテーマを研究している。フランスの学界がどうなっているのか知らないが、日本では、こうした文化系学界というのは、ほんとーに、なんの役にも立たない。当然、実学としての役立たずもあるが、文学をクリエイトすらしない。

 訳者の日本語もそれほど読みやすいわけでもない。だから、訳者の勧める、通読などすらすらできない。まして、この単語群、説明では、辞書的にも使えない。「訳者あとがき」も、必要以上に、私事が書かれ、どうかと思われる。

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2014年2月18日 (火)

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』──新書にはまれな永久保存版

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』(河合祥一郎著、2013年12月刊、祥伝社新書)


 帯にあるようにも、欧米の教養人、あるいは、古典を読むにあたって、必須の知識は、聖書とシェイクスピア作品である。欧米の人々はそれがわかっているから、成長していく過程で自然に身につけることができるが、日本では、こういう知識は、意識的に身につけなければならない。資格試験の点数がいくら高くても、このような知識を欠いていたら、欧米人には教養ある人とは認めてもらえない。

 確かに、語学の教科書でも、部分的に取り入れられていたりしているが、網羅してリストに、かつ、ポイントが書いてある本は、あるようでない。文学的な専門書にしてからがそうである。それを本書は、いとも気軽に(とはいえ、大変な知識と読書量を要すると思うが)、惜しみなく、読者が参照しやすいように書かれている。

   『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』などはおなじみであるが、シェイクスピアの歴史劇などは複雑で、戯曲に丸腰でかかっても歯が立たないということがある。その点、本書を読めば、その構造もすっきりで、文学そのものに集中することができる。

  よくある、あらすじだけを書いた本とはまったく違う。私など、なかなかシェイクスピアを攻略できないでいたので、「このような本をよくぞ書いてくれました。ありがとう」と陰ながら著者に手を合わせる日々である(笑)。

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2014年2月 6日 (木)

ワタシ的「フィリップ・シーモア・ホフマン追悼」

 数日前だったか、氏の訃報がニュースで流れ驚いた。カメレオン俳優の彼のファンだった。カメレオンといっても、ああいう風貌だから、役柄は、変人、悪人などが多い。なかでは、最近作の、『25年目の弦楽四重奏』は、素の彼に近いような、悪人でも変人でもなく、人間的な役だった。第二ヴァイオリンという、弦楽四重奏においては、「脇」のパートと人生をダブらせ、主役である第一ヴァイオリンへのコンプレックスも滲ませるという微妙な内面をも演じきっていた。もともと出身もニューヨークなので、この街を舞台にした音楽家という役のどこか洗練されている感じもよく似合っていた。

 これからもどのように変わっていくか、楽しみの人だっただけに、46才の死が惜しまれる。ヘロインの注射針が腕に刺さったまま死んでいたというが、プレッシャーにつぶされたのだろうか。それも、「知的」で「おバカ」という矛盾したキャラクターの、彼らしいといえばいえる。冥福を祈る。Rest in Peace.

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2014年2月 5日 (水)

二月は古句が似合う季節

芥川龍之介は、「我鬼」という号で、俳句に心酔していたようで、岩波文庫からも俳句集が出ているが、この「ブランド」の句には、私にとっては、あまり心ひかれるものはない。

したがって、また、古句に戻る。『古句を観る』(岩波文庫)のはじめに、柴田宵曲は書いている。「世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過ごされたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる」

「『古句を観る』の古句は、元禄時代の芭蕉の息のかゝつた俳書から集めたのであるが、その中には芭蕉やその周囲の主だつた人の句は一つも採らず、無名作家の手になつた俳句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても清新な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。宵曲子は古い俳書も丁寧に読んで、さうした句ばかり集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はれる」(森銑三、同書巻末で)

うそくらき木々の寐起や梅の花  木兆

紅梅や古句の似合はし季節なり

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誰かに似ている

若き日(といっても、自殺する年の昭和2年、35才のとき)の芥川龍之介は、こんな顔((遺言通りの岩波の全集、第9巻)

最近、わんさかいて名前を覚えられない、若手俳優、歌手、タレントのなかに、こんなカオいなかったか?

この全集には、遺書も収録されているが、たしか、何人かの知人に、死ぬ理由や、死後はこうしてくれ、という指示を与えている。妻には、事務的なことのみ。全集は「岩波から出したい」と。枕元には聖書。

なんで死ぬか? 恋愛をしていて、一方に家族があって、邪魔だ。そんなあけすけなことが書いてあった。これも、若さゆえ、なのか。

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2014年2月 1日 (土)

『努力する人間になってはいけない 』──哲学書を装った(悪い意味での)「ビジネス書」

『努力する人間になってはいけない』(芦田宏直著、ロゼッタストーン、2013年9月刊)

 ハイデッガー、ニーチェなどドイツ系の思想家を、ドイツ語などを引きながら、ネット時代の言語、精神と、哲学の言語、精神をどう折り合わせるかが書かれているようだったので購入したが、よく読んでみると、「ただのビジネス書」であった。とくに、「努力しても目標を達成できない人間」がいちばん悪い(世の中にとって?)と書かれていて、それをタイトルに、エキセントリックに使用しているが、つまりは、会社に都合のよい人間を育成する精神である。

 吉本隆明に私淑していることも述べられているが、国際基準で考えるなら、吉本隆明は、ミッシェル・フーコーとの対談において『世界認識の方法』 (中公文庫)、太平洋戦争時の日本兵のような惨めさをさらけ出していて、日本国内でのみ通用する思想家である。

 著者の、キャリアを並べたつもりであろう長長とした履歴も、「がれきのように積み上げられた」印象で、信用度を上げているかどうかは疑問である。

 若者の啓蒙が主な目的のようであるが、おそらく若者は本書のような本には関心を持たないだろう。Amazonのレビュアーも、5つ星をつけて褒めちぎっている人々の多くが、「本書しか」レビューがないのは、サクラなのだろうか?

 しかしながら、ネット黎明期からのネット活用者ならではの、ネット分析には多少眼を引くものがある。

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ペドロ・アルモドバル監督『アイム・ソー・イクサイテッド!』──アイム・ソー・エキサイテッド!

『アイム・ソー・エキサイテッド』ペドロ・アルモドバル監督、脚本、アルベルト・イグレシアス音楽

 題名はポインター・シスターズのヒットディスコミュージックである。本作は、オーストラリア映画の、オネエ三人組がかつての、ヒットディスコナンバー、アバの「ダンシング・クィーン」を踊る、『プリシラ』を思い出せる。しかし、アルモドバルは、もっとエグく、もっと軽く、もっと皮肉に、もっと批評的に仕上げている。

 おもな「舞台」は、飛行機の不具合によって着陸できず、上空をさまよっている飛行機のなか。乗客に不安を与えないために、エコノミークラスの客は、睡眠薬入りの飲み物を与えて全員眠らせている。だから、おもな出演者は、ビジネス・クラスの客で、当然数は限られてくる。このへんの設定も心憎い。担当キャビンアテンダントはオネエの三人組。彼らが踊ったり、怪しげな飲み物を配ったりして、「接客」(?)に努める。

 あろうことか、コックピットに入り込む怪しげな霊能力者の女(アラフォー処女)もいる。それぞれが、それぞれの事情でビジネスクラスに乗り込んでいて、彼らのひとりひとりが問題を抱え、その問題が機内で露わになっていく。その間も、家庭を持っているパイロットも、男同士(機長+副機長+三人のキャビンアテンダント)の恋のさや当てに巻き込まれていく。

 これでもかの下ネタの連続。あきれかえる展開。それでも、アルモドバルは全然ブレていなくて、テーマは相変わらず、愛、それも、家族愛である。

 作中、三人のオネエアテンダントが口パクしながら踊る、ポインター・シスターズの「アイム・ソー・エキサイテッド」は圧巻である。今作も、良識も常識も、胸のすくほど突き抜けてくれた。

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