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2014年4月

2014年4月26日 (土)

「ヴァージニア・ウルフなんか恐くない」?

京都在住のFacebookの「友だち」の、京都の晩春の美しい京都の写真を見ていたら、自分もかなり前(ファイルの日付を見ると、2002年(!))に撮った京都の写真が「すぐ出る場所」に入れてあったのを思い出した(ただし、ファイルサイズは、Web用に小さくしてあった)。

観光客の定番、金閣寺+銀閣寺。そして、紫式部日記に出てくる「賀茂神社」(上賀茂神社であろう)。そこを流れる小川。

「臨時の祭の使は、殿の権中将の君なり。その日御物忌なれば、殿、御宿直させ給へり。上達部も舞人の君達もこもりて、夜一夜、細殿わたり、いとものさはがしきけはひしたり」(『紫式部日記』(新 日本古典文学大系 24』所収)。

『源氏物語』は通読していないが、この『紫式部日記』は、原文で、伊藤博の註に助けられながら通読した。式部が女房として使える、藤原道長の娘、一条天皇中宮、彰子が出産のために、実家(土御門殿)に宿下がりしたのに随行して、安産祈願のために、僧侶たちが昼夜を分かたず経を唱えているところから始まるこの日記は、当時の、さまざまな行事を事細かなに描きながら、そういった生活から式部の「自意識」は遊離していく。そのさまは、まるで、バージニア・ウルフじゃあーないかしら(笑)?

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2014年4月25日 (金)

「STAP細胞問題」が問題なのは

巨額な税金がいったい、なにに使われていたのかを、あぶり出したからだ、と思う。

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『愛されたもの』──ウォーの本質を伝え得ない、残念な訳

『愛されたもの』(イーヴリン・ウォー著、中村健二+出淵博訳、2013年3月刊、岩波文庫)

 E・ウィルソンが、「イーヴリン・ウォー論」(『筑摩世界文学大系 79』(1971年刊)「ウォー/グリーン」所収)の中で看破しているように、ウォーの持ち味は、その傍若無人たるところにあるが、『Loved One』(本書『愛されたもの』原書)は、その傍若無人さが思う存分発揮された作品である。Loved Oneとは、故人のことであり、遺体を指すのだから、光文社文庫から出ている『ご遺体』という同書異名の本の題名も、あながち見当外れなわけではない。むしろ、本書のように、「愛されたもの」と直訳してしまうと、ウォーのこれでもかというほどの、ブラックユーモアから離れてしまう。『ご遺体』は見ていないが、私が推す訳は、やや古い版ではあるが、吉田誠一訳の、『囁きの霊園』(「ブラック・ユーモア選集」第2巻、早川書房、1970年刊)である。

 この吉田誠一訳こそ、縦横に文学作品を引用しつつ、教養主義や文化人、死にまつわるタブーを、完膚無きまでに笑いのめすウォーの文体をよく写している。なにより、岩波文庫の『愛されたもの』(本書)の訳者が陥っている、おずおずと気むずかしい作家を扱う「英文学」の手つきから自由になっているエンターテインメントしている文章がすばらしい。これでこそ、原書の、Loved One(吉田は「ほとけさま」と訳している)という言葉も生きてくるし、ヒロインの、Aimeé(フランス語で、やはり、「愛されたもの」)の名前を、英語の発音ではあるが、「エイメ」としているのも生きてくる。岩波版は、エイミーと、アメリカではありふれた名前となっている(欄外の注には、名前の由来等は説明してあるが)。

 本作は、痛烈な風刺小説を書いていたウォーが、『ブライズヘッドふたたび』(1945年)で感傷的な作風の変化したと言われたのち、ベストセラーとなった『ブライズヘッド』の映画化のため、ハリウッドを訪れ、郊外の大墓地を見て着想されたものである(1948年発表)。ウォーにとって、「作風」などいかほどのものか。保守党を名乗り、ローマカトリックではあっても、それは「作風」を限定しはしない。書き手としてのウォーのスタイルは、「そこまでやるか」──これに尽きている。まったく21世紀でも、いや、今こそ、読まれてしかるべき作家であり、この時代こそ、ウォーの「傍若無人」が、理解されうる時なのだと思うと、お上品な本訳は、まったくもって残念である。

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2014年4月23日 (水)

『新潮45』2014年5月号──『世界』より、こちらを読むべき

『新潮45』2014年5月号(2014年4月18日、新潮社刊)

 書店で見て、やはり、表紙に印刷されていた『「モンスター・サイエンティスト」小保方晴子の造られ方』『STAP細胞をめぐる悪いやつら』に眼が行って即購入して、「熟読」した(笑)。ついで、特集「何様つもり」のプーチン、籾井勝人(NHK会長)、上野千鶴子、野依良治(理研理事長)のところを拾い読みした。ネット上でも、これらの人々の「問題」は、ニュースサイトを中心に散らばっていて、個人の勝手なつぶやきやわめきは、べつにしても、読むことができ、「だいたい」のところはわかる。しかし、日々のニュースは、あくまでニュースの範囲内で、もう一歩突っ込んだ内容を知りたいと思っても、思うように情報を集めることはできない。そこで、本誌に出番である。ま〜、切り口、文体は、やや「週刊誌」的ではある。しかし、「週刊誌」より、綿密に取材しているし、考え方も、それほど偏ってはいないと思う。むしろ、良識ぶって、七難しい記事を並べている左翼系『世界』よりは、よりこんにちの状況をつかんでいるし、コミットしていると思う。

 肝心の「小保方問題」は、サイエンス・ビジネスとカネをいかに集めるかが絡んだ、魑魅魍魎の世界を、できうるかぎり明確にしている。問題は、「CTR再構成」だな、と思った。専門的用語で、私もよくわからない(笑)が、これがあるかどうかによって、STAP細胞が真の現象かどうか証明できるようなのだが、理研は、そこのところをうやむやにしたまま、小保方論文を本人の意図を超えた内容を世間に発表し、それが「ない」ことを知った、共同研究者の山梨大若山教授は、失望し、論文の取り下げを真っ先に勧めた。

 確かに、小保方氏は、早稲田大学理工学部という、科学者のあり得べき態度などまったく教えないところで学んだ「モンスター」なのであるが、理研がそれを利用したという構図も明らかにされている。ちなみに、小保方氏が支持したハーバード大のバカンティ教授とやらは、麻酔医であって、博士号は持ってないそうである。

 ……いや〜勉強になった。

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2014年4月19日 (土)

『寂しい丘で狩りをする』──復讐するは誰にあり?

『寂しい丘で狩りをする』(辻原登著、講談社、2014年3月刊)

 裁判の記録風書き出しは、一見客観記述を装ってはいるが、佐木隆三の『復讐するは我にあり』が、実際に起きた事件を追って、客観的な描写の中から、ドラマを浮かび上がらせるのに対して、本作は、もともと作者の頭の中で作られたフィクションなので、その「客観性」は、当然嘘くさいものになる。

 戦争の客観描写を冷徹に書いていく大岡昇平などあげるももったいないが、それでも、そういった調子を最後まで貫けば、それはそれで、それなりの作品になると思うが、作者は「堪えきれず」、すぐに女性の内面描写、三文小説のイージーな描写に変わってしまう。それなら、それで、女性の内面描写で引きずっていけばいいのだが、すぐに裁判記録が挿入される。それのくり返しで小説は進行していく。

 行きずりの男にレイプされた女性がおり、その女性が、出所した犯人から身を守るべく依頼した女探偵も、つきあっていた男からの暴力に苦しんでいるなど、いったいどういう気持ちから設定したのか? この「わざとらしい偶然」が、文学的になにか効果をあげているとは、とても思えない。

 作者は何が言いたくて、このような、どこをとっても、すっきりしない小説を書こうとしたのか? いくら文学賞をたくさんとっていても、読者は正直である。あまり売れてないようである。「純文学」の奥深さも、「エンターテインメント」の痛快さもない。俗な文体で、わざとらしい設定の物語が綴られているだけである。こういう人が「大家」として扱われる日本の文学界を本気で心配してしまう。

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2014年4月14日 (月)

『Life!』──すがすがしくもリベラルなパッチワーク

『Life!』(ベン・スティラー監督+主演、2013年、114分、原題『The Secret life of Walter Mitty』)

 ベン・スティラーという人は、ただ才能がある監督で役者だけではなく、その思想がリベラルなのである。過去の監督、出演作でも、さりげなくそのリベラルさは滲み出ていた。本作でも、露骨に出すことなく、きめ細かな箇所で、リベラルさが出ている。

 まず、写真週刊誌の『Life』の内部事情を舞台として設定したこと。そこに働く、どちらかといえば、「下っ端」のポジションにある人々を物語の中心にしていること。ネット時代のものや人物を、キーアイテムとして使っていること。……

 主人公は世界のどちらかといえば、「辺境」を旅することになるが、その土地土地で、ふれあう人々も、名もない人々である。スケボーを乗りこなす中年男もリベラルであるし、舞台役者を目指す主人公の妹が、『ヘアー』のオーディションを受ける云々、日常会話なかで語られるだけだが、あのかつての過激なミュージカルは、教会で上演されるという。『ベンジャミン・バトン』のパロディシーンが挿入されていたり、MacOSのおかげで、どこか懐かしい雪豹が、生きた姿で現れるシーンは、今という時代を生きるわれわれには、まさに「最高の瞬間」にも思える。

 そうしたエピソードは、ショーン・ペン演じる、実際には、最後まで登場しない有名写真家の撮る写真のように、さりげなく、しかし繊細に配列され、しかも、断片的である。

 『Life』というより、『ナショナルジオグラフィック』の世界のようでもある。妄想癖のある主人公の空想のハナシと見てしまえば、世界はまったくつまらなくなる。『Life』も『ナショナルジオグラフィック』も、実際、現実だけを切り取って載せてきた。

 『Life』の写真管理部で働く主人公は、その有名写真家のネガを仕事でいつも扱っているが、その写真家には一度も会ったことがない。彼は、雑誌としての『Life』の最終号の表紙を飾る写真のネガを、宝探しゲームのように意外な場所に隠して主人公に送りつけてくる。それは、ちょっとした気まぐれ、遊びである。本作は、なにか大上段なメッセージを込めているのではなくて、「人生とは、ちょっとした遊びである」と、そっとささやいている、そんな映画である。ひさびさに、わくわくした。

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2014年4月 7日 (月)

『アデル、ブルーは熱い色』──フランス映画の独壇場

『アデル、ブルーは熱い色』(アブデラティフ・ケシシュ監督、

2013年、179分、原題『LA VIE D'ADELE/BLUE IS THE WARMEST COLOR』)

 フランスのコミックが原作である。そのコミックのタッチは、つげ義治風。それ以上はわからない。映画は、アデルという名の、フランスの高校生の生活が、ただただ描かれる。しかし、高校生と言っても、そこは「おフランス」、日本と全然違う。そこんとこを、日本人は反省すべきである。まず、フランスの高校生は、性的にも精神的にも完全におとなで、デモへ行くことも、文学、哲学を語ることも、あたりまえの日常としてある。

 そういう高校生のアデルが、青い髪の一風変わった女に「一目惚れ」し、その女に深く惹かれ、存在のありったけを傾けて恋に溺れてしまう。ここがすでにちがうのである。「存在のすべてをかけて恋に溺れる」なんてことは、普通は、中原中也とか太宰治とか、日本の高校生は、そういうテキストのなかでしか知らない、どこか違う世界のできごとである。だから、アンタは、ダメなのよ。ままごとしかできない高校生は、文学的にも哲学的にも深まらないまま、ビジネス社会に組み込まれ、気づいた時には、しょーもない中年である。

 もしかして本編のアデルは、マルグリット・デュラスか、ミラン・クンデラのような、いっぱしの作家になるのかもしれない。いまはありったけの、「青春」とは言わない、「若い時間」に「在る」。

 ほとんどのシーンがアップなので、アデルが育った家の内部も、恋する女流画家の親の家の内部も、全体は見えない。そして、アデルの張り切ったピンク色の肌や産毛、髪の毛の一本一本に日の光が当たったところも映しだし、二人の若い女が延々と絡み合うセックスシーン、ほかの男とのキスシーンなど、たっぷり濃厚に、これでもかとやってくれるが、それが、日本のロマンポルノとか、ピンク映画とか、そういうものと趣をまったく異にしているので、下手すると「名画」を見ているような気にもなってくるのである(笑)。いやー、もう、おフランス映画の独壇場としか……。

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2014年4月 5日 (土)

『はじまりは5つ星ホテルから』──女性版「マイレージ、マイライフ」

『はじまりは5つ星ホテルから』(マリア・ソーレ・トニャッツイ監督、2013年、82分、原題『VIAGGIO SOLA /A FIVE STAR LIF』、イタリア映画)

 小さめのキャスター付きスーツケースで、空港からホテル、ホテルから空港へ、颯爽と移動する、おとなファッションの女性は、やはり、あのジョージ・クルーニーに重なる。決して若くはないが、まだ性的な美しさをまとっている主役のマルガリータ・ブイがとてもいい。監督も女性なので、この主人公は、元カレの子どもを宿す、彼女よりやや若いと思われる魅力的な女性よりずっと清潔感があり、そのキャスティングが、厳しい女性の目をくぐったものであることが納得させられる。

 5つ星ホテルにあこがれるのは、たぶん女性の方が多いだろう。サービスの行き届いた異空間は、女としての自分を蘇らせてくれる。しかし、私の経験によれば、5つ星のなかでもいろいろあり、私程度が、オーバーブッキングで幸運にも案内される(笑)5つ星は、世界に名だたるホテルとは違って、ごくごく平凡なものである。だいたいが、本編に出てくるホテルなど、私にはまったく縁がない。それだからこそ、観ようというものである(笑)。

 主人公の職業が、5つ星ホテルの覆面調査員という設定が効いている。彼女は「プロ」なので、ホテルのゴージャスさには決して溺れない。ホテルを冷徹に調べ上げる。そのクールさを、このマルガリータ・ブイがよく体現している。ブイ演じるイレーネは、元カレとは十数年も「親友」の関係を保っている。こういう描き方も、いかにも現代女性の視点である。そして旅先、つまり彼女にとっては仕事先のホテルで、さまざまな人物と出会う。すてな熟年男性との接近したり、前衛著述家のオバサンに圧倒されたりする。

 さて、ほんとうに愛する人を見つけるのかな、と思うと、物語は、「ハーレクイン」を拒否する。原題のイタリア語は、「一人旅」。英語は、「5つ星生活」。そして邦題は、いかにも思わせぶりである。

 最高のホテルとは、一生に一度かも知れない「新婚さん」にも、「おひとりさま」の女性客にも、惨めさを感じさせず、最高の「お・も・て・な・し」を提供できるホテルである……と、この映画は暗に言って、観客は、この映画のほんとうの主役がホテルであることを知る。

 『マイレージ、マイライフ』のジョージ・クルーニーは、勝手気ままな自分の生活の非を認め、映画はわかりやすい結末へと収れんしていったが、さすがイタリア人、本作はそんな三つ星的な終わり方はしない。

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