« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月31日 (木)

おフランス式バカンス

  おフランス語の師に連絡事項をかねた暑中見舞いの葉書を出したところ、お返事が……。最後の方に記された、お言葉、「とってもすてきなスペイン旅行をお祈りしています。私は八月一日からパリへ飛びます」
  そうだった、彼女は毎年、夏は、パリの家へ移動されるのだった。そこからまたどこかのバカンス地へ行かれることもあるだろう。
  本をいっぱい持った、おフランス式バカンスに思いをはせる。
私も八月末には「バカンス」に出かけるが、おフランス式といこう! V・A・C・A・T・I・O・N(う゛い・えい・しー・えい・てぃ・あい・お・えーん♪、たのしーな!)って、なんかかなり古い歌ではあるが(笑)、ときどき歌ってこの夏を過ごしてる私である。なんせ、この歌以外にぴったりの歌なんてないのだから。
Img_2101
Epos140730

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月30日 (水)

犬的生活2

 犬は高温には弱いが、太陽の光はすきで、これはたぶん、夜行性でない動物の多くにあてはまるのでは? うちのわん太姫(当然、女子)も、この暑いのに、ちょっとベランダを開けていると、これこの通り、「毛皮の虫干し」に余念がない。コート・ダ・ジュールのつもりか、しあわせ~そうな顔しているので、思わずパチリ。

 それと、「散歩へ行くのを待ってる状態」のときには、寝室(笑)で前脚をそろえてこんなふうにしているので、それもかわいくて、パチリ。

 Facebookには載せているのだが、こうして「外部」のブログにも載せると、だんだんプライベート生活を「みずから」流出させているようである(笑)

 まあ、それにしても、家中が犬小屋というか、犬小屋の中に住んでいる、ってな筋金入りの愛犬家の私である。

****

 一昨日の「クスクスサラダ」のランチの写真もいっしょに掲載しておきます。ひよこ豆のスープなど、「南仏オマージュ・ランチ」となっています。


Img_2088

Img_2085

Img_2081
Img_2079


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月28日 (月)

『簡単、なのに美味い!家めしこそ、最高のごちそうである。』──所詮「ブンヤあがり」のあだ花本(★)

『簡単単、なのに美味い!家めしこそ、最高のごちそうである。』(佐々木俊尚著、2014年2月、マガジンハウス刊)

 著者は『キュレーターの時代』という本が話題になっていたので、私も買って、読まずにそのまま、ブックオフ行きかどうか迷っていた。数日前、ついうろうろとKindle本で、「オーナーズ」なんとかで、タダになるというので本書を「購入」してみた。私も、「家めし」がほとんどなので、なにか参考になるかと思ったが、見てあきれ果てた。ほかのレビュアーの方も指摘しているように、カンケイない、しかも「ツボをはずした」ような身辺雑記的「おしゃべり」が、料理レシピの合間に、「コクゾウムシ」(お米に入り込むあの虫である)のように混じっている。

 私は主婦であるが、この筆者のように、夫が毎日毎日、「女の城」(台所)で、「今日のおかずはどーしよー?」と考えているなどぞっとする。この筆者は女の楽しみを横取りし、大いばりである。もちろん、男性が料理を作って悪いわけはない。しかし、この著者のような、「主婦的発想」は、どこか違和感を感じる。どうしてだろうと考えるに、おそらく、主婦があたりまえのようにしていることを、この著者は、自分のオリジナルの発見のように書いていることだ。男性でも、プロの、土井善晴センセイなど、ほんとうにオリジナルなレシピや考え方を更新をされているが、そういうテッテイしたものともほど遠い。

 いちばんいけないのは、この著者、「新聞記者時代」の「自慢話」(?)を披露して、これも、「ブンヤ」特有のズレに気づいてない点だ。「ブンヤ」という言葉は、品のない、差別語のような気もするが、この著者の書きっぷりをみて、急に思い出したのだった(笑)。めでたく会社員を卒業し、文筆業一本でやっていくおつもりなのだろうが、やはり「ブンヤあがり」の書き手にありがちのように、この著者の文章は、教養の基礎がまったくないのである。『キュレーターの時代』は、すでに時間も経ったことだし、これで、「読まずにブックオフ行き」が決まった(笑)。

 写真は私の料理です(笑)。

Img_2068

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月24日 (木)

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』──演技力+新鮮な発想(★★★★★)

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(ダグ・ライマン監督、2014年、 原題『EDGE OF TOMORROW』)

 このところ、SF的な大がかりな映画が目白押しだが、本作は、紋切り型のヒーローストリーを辿っただけの映画とは違った。生と死がループになっているという発想も新鮮だし、くりかえしのなかで、しだいに主人公が能力を高めていくというストーリーも、ゲームからの影響かもしれなが、「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)をどこか思わせる志の高さも匂う。

 こういうハイSFチック(私の造語です(笑))なストーリーを、トム・クルーズの的確な演技がリアルな深みのあるものにしている。いやー、よく考えてみたら、大した役者だ。かなり長い間スターの座にあるが、落ち目感がない。かといって、色を売っていたわけでも、わざとらしい「演技派」を見せつけるようなシリアスなドラマに出るわけでもない。ひたすら、フットワークも軽く、SF世界を闊歩してみせる。

 対するエミリー・ブラントも、女性らしさを残しながら、色を売らない演技で状況の厳しさを表出する。何度も生き返っては、軍人のエミリーが腕立て伏せをしているところに会いに行く。エミリーは床に這いつくばったまましばらく動かず、なにをしているのかと思うと、カメラが近づき、腕立て伏せ状態で止まっているのがわかる。トムが来たのでおきあがり、「Yes!」とこれ以上キリッとできないほどしっかりした声でいい、「What do you want?」。「なにか用?」

この場面は何度もくりかえされる。くりかえされるたびに、エミリーのきっぱりした態度が磨かれる。

 そして、その態度に対して、トムは、最後の場面だけ、厳しい兵士の表情を晴れやかな笑顔に変えていく……。そういう終わりの映画。

 トム・クルーズは、一時「難読症」という噂がたったが、これまで出てきたハズレのない作品をみると、ディカプリオ、ジョニー・デップ、ブラッド・ピットといった連中のなかでは、誰よりも脚本を読む力があるように思う。

 アメリカでの題名は、『EDGE OF TOMORROW』だが、この、日本のラノベの題(?)が、内容を的確に表していて秀逸だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月22日 (火)

『複製された男』──無気味というより陰気な映画(★★★)

『複製された男』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(2013年、原題『ENEMY』)

 自分と瓜二つの人間に出会う、ドッペルゲンガー現象は、なるほど「悪夢」のひとつで、既存の題材ながら、それをどう描くかが問題だが、本作は、どうも既視感が否めない。このテのテーマにとって重要なのは、リアルな手触りである。原作者はポルトガルの作家ということなら、そのヨーロッパの果ての国の手触りに、無気味さが裏打ちされるのである。しかし本作は、舞台は、アメリカに似ているが、アメリカではない国、カナダのトロントになっている。つまり、より抽象的でつかみ所のない雰囲気。ジェイク・ギレンホールは熱演であるが、どうも感情移入できない。日本のポスターには、推理作家が連名で推薦しているようだが、大したトリックがあるわけではない。無気味というより、陰気なのである。陰気な街、陰気な音楽、陰気な登場人物。

 監督は、いったいどういう映画が撮りたかったのか、よくわからないところがある。デヴィッド・リンチ風な猟奇的な作品にするなら、配役を少しひねって、ジェイクの妻を、実際には母親役のイザベラ・ロッセリーニ(彼女と年がそう違わない私はショックであったが(笑))にして、「夢想の中の女」を、若手の、恋人役のメラニー・ローランにする。……なんてことを考えてしまった(笑)。

 愛らしい顔立ちのナオミ・ワッツが変身していく、彼女の出世作でリンチの『マルホランド・ドライブ』と似通ったトーンを持っているだけに、突っ込みの足りなさが惜しまれる。

 ただ、ジェイク・ギレンホールは、よく演じていたと思う。とくに私のようなファンのヨコシマな目で評価するなら、彼の至近距離アップは「ありがと〜」のひとことであった(笑)。これがジェイクでなかったら、★二つだが、彼に免じて、★三つ。しかし、ホアキン・フェニックスが演じるなら、映画は演出意図をはるかに超えて、★四つをつけるべき作品になり得たかもしれないな〜……などという可能性をも夢想する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月15日 (火)

『明治の表象空間』──「表象」という名のエントロピー

『明治の表象空間』松浦寿輝著(新潮社、2014年5月刊)

 結局、「フランス文学者」の「明治」なのである。第1部「権力と言説」の、警察関係資料の詳細なデータ援用は、それなりに何かかたちにしてくれるのだろうかと期待するが、やがてそれは、総花的かつ断片的な、現代思想家(フーコーは当然のことながら、ベンヤミン、アガンベン)、西洋哲学者(カント、ヘーゲル、ニーチェ)、西洋文学者(ボードレール、ブランショ)などの「援用」に落ち込んでいき、辟易させられる。

 筆者は果たして、本書で何が言いたいのか? 歴史的に、文学的に、哲学的に、「明治」という時代を形作っている「なにか」(それを「表象空間」というのか?)を明かしたいのか? 残念ながら、本書は、歴史書としても、哲学書としても唐突すぎて信頼がおけない。では、文学書としてはどうか? それを期待するしかないのだが、著者個人のインスパイアされる力が感じられず、ただ知識のある学者の抽象的な記述に終わっている。

 なにより不満を感じるのは、「明治」というのに、「江戸」からの地続きの思想の紹介が、「儒教的な」で終わっている。この「儒教」ひとつとっても、江戸時代には、さまざまな考え方の思想家がおり、しかも、荻生徂徠や伊藤仁斎などは、漢語で本音を書いているので、その詳細な読解もほしいところである。天皇に関する考察にも、なにもスリリングなものを含んでいない。権力について何かを解明したような気になっても、著者が結局、安全地帯にいることに変わりはない。

 所詮は、「都電を見ながらエッフェル塔を思う」学者の自己満足的「集大成」以外のなにものでもない。

Img_1969

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月12日 (土)

『「ボヴァリー夫人」論 』──普通の日本人は「読まずにすませられる」

『「ボヴァリー夫人」論 』蓮實重彥著(筑摩書房、2014年6月刊)

 Gallimard社のfolio版(ペーパーバック)、『Madame Bovary』に付いている、Maurice Nadeau(有名な文芸評論家)の序文によれば、フローベールは、この小説を53ヶ月かけて遂行に遂行を重ね、それは、まさに「pensum」(「罰の宿題」という意味のラテン語。『ボヴァリー夫人』で、校長が「新入り」騒ぎの罰として下すラテン語の詩行筆写の際にも使われている単語)であったという。その苦心の果てに、フローベールは洩らす。「ボヴァリー夫人は私だ」という例の有名な言葉を。この言葉は、「Madame Bovary, c'est moi」と言ったのではなく、「La Bovary, c'est moi」と言ったのだ。彼は、ホメロス、ラブレー、ミケランジェロ、シェークスピア、ゲーテのように、まるで神の手になるような芸術作品が作りたかった。だから、どの行をとっても、考え抜かれている。セーヌ川が海へと注ぎ込む一歩手前の、川岸の街、ルーアン。それはフローベールの故郷であるが、作品の舞台でもある。そのbucolique(牧歌的)な描写が美しい。しかも物語はかなりのスピード感を持って進められる。日本でいえば、志賀直哉、瀧井孝作である。そういう小説に、蓮實氏得意の、「説話論的分析」を施してみて、なんの意味があるというのだろう? また、氏特有の気取った「物言い」の奥に、ありがたいご本尊でもあるというのだろうか?

 学生時代のはじまりに、フランス文学という入り口から入っても、小林秀雄は『本居宣長』に行き着いたし、最近の例で言うなら、松浦寿輝氏は、「明治」に至っている。この蓮實氏のみが、相変わらず、「おフランス」の文学の、しかも、フランス語を読めない日本人読者相手に、一見ありがたそうな「批評的エッセイ」を書いている。同内容も、いっそのこと、フランス語で、フランス人相手に書いてみてはどうだろうか? 果たして、どれだけの評価が帰ってくるか。Gallimard社は、50年後も読まれるだろうと判断されるものでないと出版しないという。そして、「ボヴァリー夫人論」も、その周辺の資料も、このペーパーバックで足りる。それ以外の資料を駆使した、特異な「論」が読みたいむきは、どうぞ本書を読んでください。

 さらに付け加えるなら、日本語で訳された『ボヴァリー夫人』のなかで、蓮實氏は、山田じゃく訳(河出文庫)を買っているようであるが、原文のスピード感を達成している伊吹武彦訳(岩波文庫)もよいと思う。また、蓮實氏は、校正にあまり力を入れていないようで、氏の著書には、昔からかなり多くの誤植等が見受けられる。

Img_1967_2

Img_1966_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 7日 (月)

『her/世界でひとつの彼女』─「言葉」と「物」

 スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』

 恋愛にかぎらず、人間でないものとの心のふれあい、もっと言えば、過剰な思い入れは、物理的ふれあいが不可能ゆえに、ときに絶望的に悲しい。過去にもいろいろな物語があった。それが非現実的な話なら、ピノキオは人間の男の子になったし、「次元を超えて」結ばれることもできた。しかし本作は、近未来とはいうものの、まぎれもない現実を描いている。ゆえに、OSの「サマンサ」が、ある日突然肉体を持って主人公、セオドアの前に現れることは考えられない。あらかじめ、「絶望」は用意されているのだ。

 著書を通じて、すでに死んでいる人物に恋することもあるが、それでも、その人物は、かつては肉体を持っていたので、どこか救われる。

 OSというのは、コンピューターのオペレーティング・システムで、いわゆるAI(人工知能)のロボットとも違う。なるほどAI搭載型OSであるのだが、OSなので、肉体がない。ここがこの映画のミソであるが、そういう条件で、どこまで交流ができるかということである。しかし、果たしてこれは「交流」なのか?

 哲学者のミシェル・フーコーは、『言葉と物』のなかで、「やがて人間という概念さえ終わるだろう」と言っている。そういう状況のもとで、恋愛という概念などいかなる意味があるのだろう? まさに、「言葉」と「物」なのである。「言葉」と「物」は永久に探求されなければならない。

 そしてこの映画の魅力とは、そのまま「物」=OS役の、スカーレット・ヨハンソンのハスキーで温かな、笑い声なのである。そして「考え方」なのである。こんなにも人間的に真摯で正直な考え方を、チャーミングな声で発するプログラミングが可能なのかということだ。

 「宇宙の中では、われわれは同じ物質」とサマンサは言う。これこそ本作の神髄と見た。恋という感情は、おそらく、ギリシア悲劇でいう、カタルシス、なのではないかと思う。そのカタルシスを、本作は、映画ながら感じさせてくれる。そして、カタルシスとは、記憶のなかで、何度も再生できるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »