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2014年7月12日 (土)

『「ボヴァリー夫人」論 』──普通の日本人は「読まずにすませられる」

『「ボヴァリー夫人」論 』蓮實重彥著(筑摩書房、2014年6月刊)

 Gallimard社のfolio版(ペーパーバック)、『Madame Bovary』に付いている、Maurice Nadeau(有名な文芸評論家)の序文によれば、フローベールは、この小説を53ヶ月かけて遂行に遂行を重ね、それは、まさに「pensum」(「罰の宿題」という意味のラテン語。『ボヴァリー夫人』で、校長が「新入り」騒ぎの罰として下すラテン語の詩行筆写の際にも使われている単語)であったという。その苦心の果てに、フローベールは洩らす。「ボヴァリー夫人は私だ」という例の有名な言葉を。この言葉は、「Madame Bovary, c'est moi」と言ったのではなく、「La Bovary, c'est moi」と言ったのだ。彼は、ホメロス、ラブレー、ミケランジェロ、シェークスピア、ゲーテのように、まるで神の手になるような芸術作品が作りたかった。だから、どの行をとっても、考え抜かれている。セーヌ川が海へと注ぎ込む一歩手前の、川岸の街、ルーアン。それはフローベールの故郷であるが、作品の舞台でもある。そのbucolique(牧歌的)な描写が美しい。しかも物語はかなりのスピード感を持って進められる。日本でいえば、志賀直哉、瀧井孝作である。そういう小説に、蓮實氏得意の、「説話論的分析」を施してみて、なんの意味があるというのだろう? また、氏特有の気取った「物言い」の奥に、ありがたいご本尊でもあるというのだろうか?

 学生時代のはじまりに、フランス文学という入り口から入っても、小林秀雄は『本居宣長』に行き着いたし、最近の例で言うなら、松浦寿輝氏は、「明治」に至っている。この蓮實氏のみが、相変わらず、「おフランス」の文学の、しかも、フランス語を読めない日本人読者相手に、一見ありがたそうな「批評的エッセイ」を書いている。同内容も、いっそのこと、フランス語で、フランス人相手に書いてみてはどうだろうか? 果たして、どれだけの評価が帰ってくるか。Gallimard社は、50年後も読まれるだろうと判断されるものでないと出版しないという。そして、「ボヴァリー夫人論」も、その周辺の資料も、このペーパーバックで足りる。それ以外の資料を駆使した、特異な「論」が読みたいむきは、どうぞ本書を読んでください。

 さらに付け加えるなら、日本語で訳された『ボヴァリー夫人』のなかで、蓮實氏は、山田じゃく訳(河出文庫)を買っているようであるが、原文のスピード感を達成している伊吹武彦訳(岩波文庫)もよいと思う。また、蓮實氏は、校正にあまり力を入れていないようで、氏の著書には、昔からかなり多くの誤植等が見受けられる。

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