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2014年10月

2014年10月31日 (金)

『ウィークエンドはパリで』──ゴダールさまのおかげで★一個おまけ(★★+★)

『ウィークエンドはパリで』(ロジャー・ミッシェル監督 2013年、原題『LE WEEK-END』)

 本作は、最後の「3人」のダンスを見ればわかるように、ゴダールの作品『はなればなれに』のパロディであり、作中のテレビ映画のなかにも、その作品が「引用」されている。しかし、それに気づかなければ、ただのジーサン、バーサンの、わけわかんないウィークエンド(この題名も、ゴダール作品を意識しているようであるが、ゴダールの場合は、ただの『Week-End』であり、本作は、ごていねいに、フランス語の冠詞、Leが付いて、『Le week-end』である。「ほら、あの、『ウィークエンド』だよ、と言っているのかもしれない)

 『はなればなれに』は、若くてコケティッシュなアンナ・カリーナがなんとも魅力的であったが、こちら、五十代後半の設定ながら、実年齢六十三歳くらいの、リンゼイ・ダンカンである。いくらセミ・ヌードを見せても、「やめてくれよ!」(笑)としか、言えない。ほんとうに、監督は、なんのつもりで、こんな年寄り夫婦を、こともあろうに、『はなればなれに』のパロディの主人公に使ったのだろう? いくら超高齢化社会のエンターテインメントとはいえ、あまりに夢がなさすぎる。まあ、年寄りでも、せめて、ジェレミー・アイアンズくらいの男が、夫役なら見られもするが、この、ブロードベントとかいう男優、名優なのかもしれないが、許し難い容貌である(笑)。こんなの、日本の「デイサービス」に掃いて捨てるほどいる。

 そして、結局のところ、イギリス人は、フランス人にはなれないのである。レビュアーの多くの方々が指摘されているように、高級レストランでの、「キュートな」(はずの)無銭飲食が、まったくキュートにならなくて、単なる非常識にしか映らない。おそらく、ゴダールの、登場人物なら、キュートにこなしてくれただろう(もしかして、そんな場面もあったかもしれない)。それと、パーティーで、バーサンが、中年男にナンパされる。また、このバーサン、「若い男に本屋でナンパされたこともある」などと夫に威張る。いいトシこいて、いちゃつく夫婦……映画とは、お金を払って美男美女を観に行くところでもあるのに……(苦笑)。ことほどさように、「バーミンガム」から出てきた、「田舎のネズミ」、やっぱり、パリは似合いませんでした、という映画に相成っている。ゴダールは当然「ド無視」だろう。しかし、その心意気だけ買って、★はひとつ増やしておく。妙な生活感も、べつのテーマと思えば、悪くはない(笑)。イギリスってそういう国なのね。私はそういうイギリスが性に合ってはいるが(笑)。音楽もそれほど悪くはない。

作家として成功した友人(ジェフ・ゴールドブルムが、いかにも、おフランスにいそうな要領のいいアメリカ人を演じているが)の豪邸のパーティーに集まる、おフランスの出版界のスノッブどもの描写も見物(みもの)ではある。

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2014年10月24日 (金)

『フランク』──人間にとって「顔」とはなにか(★★★★★)

『フランク』(レニー・アブラハムソン監督、2014年)

 安部公房のテーマのようである。あるいは、ベケットの全身砂に埋まった人物は、「体がない」状態で、セリフをしゃべる。しかし、それでも、どこか安心感がある。その「顔」が、隠されていて、その代替物として、びっくりハウスを思わせるようなかぶり物があったら、その人物のアイデンティティーをどのように受け入れたらいいか──。本作はコメディータッチながら、哲学的主題について考えさせる映画となっている。

 かぶり物を脱がないフランクとバンド仲間が、作品を作っていくというストーリーが中心になっているが、その曲作りや、バンド仲間たちのキャラクター、生活も紋切り型ではない。また、次々に形をなしていく曲も、非凡である。

 本作には、どこをどう探しても、紋切り型はひとつもなく、映画は、観客の期待も不安も裏切りながら、「大団円」に向かう。そう、本作は、ツィッターなどの書き込み画面もうまく利用して、軽いタッチの小品に見せながら、実は、「大団円」へと向かっていく。それは──。

 それは、誰もが、心の中で期待している、「フランクの中身」、「フランクのほんとうの顔」の露呈である。

 ひゃ〜、フランク役のマイケル・ファスベンダー、「世界一ハンサム」(そういう評価はいったいどのように決めるのか疑問だが(笑))との触れ込みだが、変態そうで(『シェイム』を観たせいか(笑)。これも傑作であるが)あまりすきではなかった。しかし、んー、やっぱりそうか、である。はい、認めます(笑)。彼は、本作で、「世界一のハンサム」を証明してしまったようである。

 しかし主役は、あくまで、フランクとバンド仲間に、ひょんなことから関わり、成長する(!)、ドーナル・グリーソンである。彼のトッポさあっての、フランクであるような気がする。シテとワキ。これほど完璧な例はまず、ないだろう。全体にイギリスっぽい映画ではあるが、ファスベンダーのドイツの血(アイルランド系の母とドイツ系の父を持つらしい)が、異物の結晶のように美しく燦めく作品である(って、言い過ぎか(笑))。

 ファスベンダー歌う、最後の歌も、物語中作られる曲のなかで、もっともシンプルなものでありながら、魅惑的である。

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2014年10月20日 (月)

『誰よりも狙われた男』──ホフマン最後にして最高の演技(★★★★★)

『誰よりも狙われた男』 (アントン・コルベイン監督、2013年、原題『A most wanted man』)

 ル・カレのスパイものは、007のようなアクションは出てこない。主人公も、007のような「いい男」ではない。かなりストイックな男で、現場で、「スパイ道」(などというものがあれば(笑))に悩む。作家自身が携わっていただけあって、かなりリアルである。『裏切りのサーカス』の主人公、スマイリーも、スリムなゲーリー・オールドマンが演じたが、原作は、フィリップ・シーモア・ホフマンの体形にちかい。本作が『裏切りのサーカス』と違う点は、舞台がハンブルクで、主人公は、ドイツの諜報活動に携わるドイツ人である。ただドラマ中にもセリフで示唆されるように、ドイツは憲法上、表だって諜報機関を置くことができないので、すべては、部署の名前もあたりさわりなく、「存在しない機関」として活動している。

 そのドイツ人を、シーモア・ホフマンが演じる。諜報活動を現地で行う、CIAで言えば、「ケース・オフィサー」には、現地で直接スパイ活動を行ってくれる人物を、現地の政府や要人の側近の中からスカウトしなければならない。そして、その人物を命をかけて守らなければならないのだが、シーモア・ホフマン演じるギュンターは、過去にそれらのエイジェントを、死なせてしまったこと事実があり、そのことを悔いている。そして、今回も、そういう状況を彼は迎える。それがこの物語のポイントである。

 イスラム原理主義者の「過激派」の資金源を追いつつ、人物も物語も錯綜していく。映画はその錯綜だけを見せ、その中心に、ニコチンとカフェイン中毒のホフマンがいる。腹も出ているこの男は、しかし、魅力的である。耐えきれなくなった時には、ひとりピアノを弾く。右腕とも言える女性の部下は、どうも彼に気があるらしいが、彼は受け入れない。

 いまや、スパイの巣窟となったハンブルクの街を舞台に、ハリウッド映画でお馴染みの役者たちが、「意外な」雰囲気で登場し、ドイツ人たちの苦悩を演じる。人権擁護派の弁護士を、レイチェル・マクアダムスが演じているが、この女優、『アバウト・タイム』の「女子」からはまったく考えられない変身ぶりで見張るが、元来、彼女は、うまい役者であるから、なんでもお手ものであろう。そして、銀行家のウィレム・デフォー。この人も、とてもドイツ人には見えないが、おそらくドイツ俳優では出せない、深いアイロニーを滲ませている。「樋口可南子そっくり(笑)」のロビン・ライトのCIA幹部も、黒髪のショートヘアで、アッと驚く変身である。しかも役柄も、今までない、「激辛女」。どの役者もこの役者も、とてもドイツ人には見えない。しかし、先も書いたように、ドイツの役者では出せないのだ。この物語の深いテーマが。

 で、ふたたび、シーモア・ホフマン。二月に死去した彼の最後の作品である。すばらしい。最高の演技を残して死んだのだから、もう生きている意味もなかったのかもしれない。逆説だが、そんなふうも思わせる。彼の横顔のアップが多かったように思うが、ただ煙草を吸ったり、車を運転したりしているだけの彼から目が離せない。デブにこれほどまでに惹きつけられるなんて……嗚呼(笑)!

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2014年10月14日 (火)

『ファーナス/決別の朝』──クリスチャン・ベイルの美

『ファーナス/決別の朝』(スコット・クーパー監督、2013年)

 これ以上にない豪華キャストが、これ以上にない地味な映画を作った──。やはりアメリカ映画は「地方の時代」で、ここでも、「アメリカンドリーム」などとはまったく無縁な、もしかしたら、日本の地方都市にもあるかもしれない、暗くて寂れた地方都市というか、田舎町が舞台である。日本とちがうところは、とにかくアメリカは広いので、田舎町もそれなりに広くて、「深い」。何世代にもわたって住み続け、自分たちの掟を持っているディープ・アメリカ。

 「弟顔」のケーシー・アフレックは、やはりここでも、弟で、イラク戦争に何度も送られ、精神的トラウマを抱えているが、それがそれほどハデに描かれているわけではない。主人公は、やはり「長男顔」のクリスチャン・ベイル。彼が美しい。もともと欧米人のなかでも彫りの深い顔立ちに、さらに陰影を加えている。感情を抑えた表情も、抑制が利いて見るものを引きつける。

 結局このドラマ、登場人物はかぎられている。地元のワルに、ウッディ・ハレルソン、中くらいのワル(笑)に、ウィレム・デフォー、無骨だけど、悪い人間ではない警官に、フォレスト・ウィテカー、主人公のネイティブ・アメリカンの恋人に、『アバター』のゾーイ・サルダナ、主人公の叔父に、サム・シェパード。これだけの人物だけの間で、かなり抑えたドラマが演じられる。

 簡単に言ってしまえば、復讐劇だが、それがどうしようもない地方のリアルな生活のなかで演じられるというそれだけのハナシ。よくこんな地味なハナシを、ディカプリオやリドリー・スコットが製作に回って作ろうとしたものだと感心しする。しかし、監督のスコット・クーパー、ワンカットの無駄も見せず、声高に叫ぶこともなく、アメリカが持っている問題を、映像美に転換したものだと、これまた感心。

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2014年10月 5日 (日)

伊藤比呂美著『女の一生』──「『女』それは、オワコンではあるが……」と、ボーヴォワールは1949年に……(★★)

『女の一生』(伊藤比呂美著、岩波新書、2014年9月刊)

「女」というテーマはすでに「オワコン」(「終わったコンテンツ」)ではあるがという含意で書き始めている『Le deuxième sexe』が出たのが1949年である。以来本書は、フェミニスト思想のバイブルのようにされてきたが、わが国で有名となった、「人は女に生まれない、女になるのだ」という「書き出し」が、実は、第2巻の書き出しであり、原著をごちゃごちゃイジって出してしまった「最初の邦訳」せいで、かなりまえに、正式版が出たが、時代状況もあり、取り返しのつかないところにまで行っている。どう取り返しがつかないかと言えば、「女」と言えば、このヒト、伊藤比呂美の専売特許のように、日本の出版界はなっていて、しかも、ボーヴォワールの『第二の性』は入手困難な状態となっている。とくに仏語版第1巻は、内容的に難解な記述になっているためか、どこかに放りやられている体がある。

 本書は、文字通り、女として自立するために、「書くこと」を選び(というより、それしかなかったのか)、私生活もなにもかも書き散らして(ごく一部の「これだけは売らない」の部分はもちろん存在するが)、文字通りで、真っ裸で、生き抜いてきた証左である。しかし、それ以上のなにがあろう? しかし、それはなかなかできないことでもある。本書はどのように読めばいいか? ま、「私小説」ですね。そのように読めば、それなりに面白いし、読むに耐える内容にはなっていると思う。

 真に「女」の問題を、今の時代に提出したいなら、岩波書店さん(でも、どこでもいいですが)、お願いですから、「もう一度」、ボーヴォワールの『Le deuxième sex』を正しい訳で、「オリジナルのまま」だしてください。

 まともな「男性読者」に多く読まれないかぎり、「女の問題」は進展しない。伊藤氏の「先輩格」の上野千鶴子の、「女は連帯しよーぜ」って思想でも困るんです(笑)。

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