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2014年12月

2014年12月25日 (木)

うちのクリスマス

クリスチャンではないけど、なんか一年で一番リキの入るクリスマス。やはり、キリストさまがお生まれになったことはありがたいのである。かもしれない。なんせ、「聖書」は、世界一のベストセラーだし。で、少しずつ材料などは取りそろえているので、ケーキとステーキ肉と花を買うために、キリストに敬意を表して(笑)、シャネル№5のパーススプレイ・オードゥトワレット(№5でも、日常づかいできるカジュアルな香り。ふだんは、DiorのJ'adore Voile de Parfum (かなり軽い香り)))をつけて買い物に。

メニュー:ムール貝の蒸したもの(冷凍、生協のできあい)、生ハム、チーズ、ドライフルーツの盛り合わせ、和牛ステーキ、グリル野菜添え、生野菜サラダ、ニンジンスープ、バゲット(Paul)。

今、バロックのクリスマスソングを流して、これを書いている。

「するとどうでしょう、主の御使いが夢で彼(ヨセフ(マリアの夫だが、12歳で初潮を見たマリアを保護するために結婚するように司祭に指示された))にあらわれて言いました。『この少女を怖れてはいけない。彼女が宿しているのは精霊に由るものである。彼女は男の子を生む。そうしたらイエスと名づけなさい。彼はその民を罪から救うのだ」(マタイⅠ・20以下)そこでヨセフは夢から覚めて起き上がり、彼にこの恵みを垂れたもうたイスラエルの神を賛美しました。そして彼女をひきつづき保護するのでした(マタイⅠ・24)」(ヤコブ原福音書(八木誠一訳)『新約聖書外典』(講談社文芸文庫))

身ごもつたマリア輝く枯野かな 山下

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2014年12月24日 (水)

クリスマスの句

 影は天(あめ)の下てる姫か月のかほ  いが上野松尾宗房@23しゃい

 はせを忌や月雪二百五十年  飯田蛇笏

 淀川や聖夜は知らず客死かな  山下

 この季語は良句なきかなクリスマス  山下

(写真は、2009年12月25日のパリ、マドレーヌ寺院)

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2014年12月23日 (火)

うちのクリスマスソング

うちのクリスマスソング。

1,ダイアナ・クラール『Christmas songs』

2,マイケル・ブーブレ『michael bublé christmas』

3,山下達郎『Christmas Eve』(含英語バージョン)

4,アニェス・ショーミエ『Noël』

5,エラ・フィッツジェラルド『a Swinging Christmas』

6,『グレゴリオ聖歌集』(ウィーン・ホーフブルクカペルレ・コーラルスコラ)

7,『Christmas goes baroque』(CRRS State Philharmonic )

8,『スーパースター・クリスマス』(ジョン・レノン&ヨーコ・オノ、マイケル・ジャクソン@6しゃい、など)

ジャズ、バロック、正調、おフランス、ポピュラー、「きみはきっと来ない」、エラ@正統派英語……などなど、こんだけそろえりゃ、どんな気分でもOK(笑)。

ちなみに、今年は、上の二人、クラールとブーブレ。乾いた気分。

なお、iTuneライブラリは、このかぎりにあらず。ローズマリー・クルーニーの『ジングルベル』、シナトラなどを、storeで購入。カモナ・マイ・ハウス!

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2014年12月21日 (日)

『毛皮のヴィーナス』──Hが欠けている(笑)(★★★★)

『毛皮のヴィーナス』(ロマン・ポランスキー監督、2013年、原題『LA VENUS A LA FOURRURE/VENUS IN FUR』)

 なにかありげな街路、雨、雷、そして古びた劇場……の、THEATRE(テアトル)という看板の文字の、Hの字が抜け落ちている……。なんのシャレか、本編も、サドとかマゾとか、がなりたててはいるものの、全然Hではない、というか、エロスも興奮もない。ただ、「ちゃんとしたセリフ」があるのみ。とくに、「ヒロイン」の、エマニュエル・セニエのセリフ廻しはすばらしい。舞台でそのまま使える。物語は、だいたい見当のつく展開。というか、すでにチラシなどにも書かれている程度で、意外な展開はなにもなく、観客が待っていたように進んでいく。しかしながら、最後は、まー、いにしえの早稲田小劇場を思わせたな〜(笑)。白石加世子がワンダを演じたら、もっと恐くなっていたらだろうに……(笑)。

 しかしながら、セニエの下品ぶりと、それを逆手にとった、「ほんとうは教養あるのよ」ぶりは、毎度「おフランス女」の常套手段である。こういう女には要注意。というか、おフランス人で、いちばん尊敬されるのは、こういう女である。どういうことかというと、画面には出ない、ちょいインテリの演出家、アマルリックのフィアンセ、育ちがよくて博士号も持っていて背が高くて美人で若い……つまりなんでも持っている「金持ち子女」へのアンチテーゼ。これが、フランス共和国の標語、「自由、平等、友愛」を支えているのである(ほんとかよ?)。

 だから、まー、ポランスキーもよーやるわ、で、星は、四つ。最後は、映画から演劇へ転換していたし(笑)。

 あ、この女、ほんとうはプロ根性の謎の女優ではなく、おそらく、ほんものの、女神なんだろう。私はそう思った。女神っていうのは、存外こういう姿をしているものである。それでこそ、説明のつく映画である。そういうものを平気で出してしまったポランスキーも、もう殿堂入りの境地であろう。

 見どころは、セニエの「一見」安っぽい衣装。とくに、劇中、毛皮の代替物となる、手編み風マフラー。クレジットを見るかぎり、プラダ? 鞄はヴィトンなのか、日本のギャルが持ってるような普及品じゃなくて、とくべつ仕様。

 もっとHを欲している向きには、かなり昔に映画化された、『O嬢の物語』をオススメします(笑)。

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2014年12月18日 (木)

『ゴーン・ガール』──ロザムンド・パイク賛江!(★★★★)

『ゴーン・ガール』──ロザムンド・パイク賛江!(★★★★)

『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー監督、2014年、原題『GONE GIRL』)

 デヴィッド・フィンチャー監督は、毎回、ベストセラーや話題の社会現象を映画化、キャスティングもドラマ運びも、洗練されたものを持っているので、安心して見ることができる。しかし、どうだろう? 『セブン』で、血みどろ+絆創膏いっぱいの、ブラッド・ピットの美しさを際立たせて以来、それ以上の作品を作っているだろうか? 

 本作は、アメリカ経済の凋落の中で、堕落していく夫婦を描いたようだが、それを、夫婦間のスリラーに変えている。しかし果たして、ほんとうにスリラーだろうか? スリラーにはしてはあまり恐くないのである。そしてミステリーにしては、「謎」を早く解きすぎる。なるほど、物語は、これまでの紋切り型という地雷を、うまく避けるように進んでいく。

 目を惹きつけられるのは、ロザムンド・パイクの完全犯罪ぶりである。このイギリス人女優は、「無表情がウリのカメレオン俳優」という矛盾するキャラクターの持ち主である。はじめて見たのは、ブルース・ウィリス主演のSF『サロゲート』。ここで、パイクは、アンドロイド妻を演じていた。トム・クルーズ主演の『アウトロー』では、理知的な弁護士。『17歳の肖像』では、17歳のヒロインがダブるデートする、恋人の友だちのガールフレンド。やさしそうな、芯の強そうな眼差しが、どんな役を演じていても印象に残る。今作でも、自身を被害者に見立てるための細工の動きがすばらしい。人相を変えるために菓子をぼりぼり食って太ってみせる、その食べ方も堂にいって、身につまされてしまった(笑)。

 原作者が自ら書いた脚本は、確かによくできていておもしろかった。しかし、フィンチャー、監督としてはどうだろう? トーンダウンしてはいないか? トレント・レズナーの音楽も、今回はサエなかったように思う。

2014年12月17日 (水)

「ときどきのマラルメ」1

「花々」より(『ドゥマン版』より 拙訳)

くすんだ青の黄金の雪崩たちが

はじめてにして天体たちにとっては永遠の雪の日

その昔きみは大腎杯を切り離した

まだ若く災厄を知らない土地のために、

[Mallarmé de temps en temps](mercredi 17 décembre)

De "LES FLEURS" (de "EDITION DEMAN")

Des avanches d'or de vieil azur, au jour

Premie et de la neige éternelle des astres

Jadis tu détachas les grands calices pour

La terre jeune encore et vierge de désastres,

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2014年12月15日 (月)

紫野京子のインターステラー

  ネット上では、画像情報はともかくとして、基本的には、その人となりは、その人が書いた文章でしか読み取れない。したがって、文章が自由にあやつれないとなると、多少不利なことになるけれど、じっくり読めば、どんな短い、一見素朴と思える文章にも、その人となりは現れる。たとえ、一見「華やかな」な情報を自在に発信しているかに見えるFacebook(載せられる画像サイズは、ブログ等とちがって、無限のようにも思われる)も、書かれた文字から人となりを判断するように、私はしている。 

 人目を引くような目立つ画像を、どこからとも知れず盗んで(「拾って」と本人は言うが(笑))来て、おのれのページを飾っている人。無邪気にもその画像に感心して、本心かどうか、褒めている人……などなど。まあ、ご自由に、ではあるが。そのなかで、武貞京子という人の花や自然を撮った写真には、ただうまいだけでない何かオリジナルな視点があって惹きつけられていた。和服の写真を自慢げに載せているオバサン(失礼(笑)!)もまま見受けられるが、その中には、飲み屋のママさん(笑)のような、初老のお色気自慢の方もいらっさったが、武貞京子という人が発表する和服は、まったく違った意図でなされ、その気品、豪奢さに、なんと贅沢なことかと、これまた惹きつけられていた。

 氏が書かれている文章を見れば、お宅には、介護しなければならないご主人もおられるようだけど、そんなイメージからはほど遠いほど、優雅な時間を(努力されてではあろうけれど)過ごされている。お庭の草花や虫、空の星々、展覧会等、大して時間も取られない事柄でありながら、深く堪能されている様子にも、心から感心していた。

 その武貞さんは、やがて、詩人の紫野京子さんであることがわかる。そのお名前はどこかで見たことがあったし、「業界」(これまた「失礼」(笑))では知られた存在なのであろう。

つまり、Facebookの友だち(たぶん、私がランダムに出した(そういう時期もあった)「友だち」申請に応えてくださって、「友だち」になったのだと思うけれど)のなかでも、お近づきに(矛盾しているが(笑))なりたい方だったし、文才があることもわかっていたので、自分が勝手に開設した、(一応、俳句等投稿サイト)『明日は帰ろう伊賀の里』のメンバーに勝手に入れさせていただいたところ、思わぬ投句をいただき、その後、たびたび、俳句や短歌を、すばらしい写真とともに公開してくださっている。

 そういうご縁で、氏がこれまで出された、詩集、評論集、雑誌等をご恵贈いただいたが、ほとんどすべて、「月草舎」という、ご自分の出版社で出されている(装幀等も)ことが印象的であった。いつか、FBでも書かれていたが、ずっと哲学書を読まれることが心の支えであったという。それも、はやりだからとか、頭をよく見せようだとか、という見栄ではなく、ほんとうに自分の心を支えるために読まれていたようだ。

 FBは、奇しくも、そういう武貞=紫野ワールドを全体で眺めることができるのだが、これが、詩集のみ、雑誌のみの文章だけだと、語っている声が静かなので、ある技術を備えた詩人ではあるけれど、どうかすると見過ごしてしまったところだろう。

 「雲は天才である」と言った歌人がいたが(笑)、武貞京子も天才なのである。最新の詩は、『季』(2014 冬 100号(「関西四季の会」)に見ることができる。

  沼のなかに沈んだように

  その静かな動揺が

  永劫のように思えた 

  天の国のやすらぎよりは

  昏い六道を経廻る方が望みだった

  あなたなしの光よりは

  あなたと共にある闇の方が

  愛しかった

  湖面に揺れる光の影

  沙羅の花が落ちる

  一日さえも危うい今

  この時だけが信じられる

 

  その一瞬だけが永遠だと

  信じていられた

  それすら今はもう 枯野のかなた

  幻の姿さえ掴めない

  今 ここにしかいられない

  存在の哀しさ

  (「あなたのしずけさ」)

 これは亡くされた弟さんのことを思って書かれたのだろうと思う。亡くされたのは、「資料」から判断するに、もう十年以上前のことと思われるが、紫野京子にとっては、いつでも、つい昨日のこととしてあり、またそれゆえ、死者の魂も、氏とともあるように思う。

  枯枝に一つだけ

  小さな林檎が残っている

  風花が舞う

  冬一番の木枯らしが

  駆け抜けてゆく

 

  オリオンが上り始める

  リゲルが頭上に輝いても

  眠れない夜

  (「冬の庭」)

  私たちはみな

  心のなかに 庭を持っている

  (「心の庭」)

 誰も、冬の夜空を仰いで星を探した者なら、また、庭にあこがれを持って、林達夫「作庭記」を読んだものなら、これらの言葉が、頭の中で作られた抽象的な言葉ではなく、まぎれもない現実であることが納得させられるであろう。私は、「現代詩」界という世界は、闇雲であると思うが、紫野京子(と、氏の周辺)の詩は、決して闇雲ではない。ここでは、どこかに存在していると想定されるような「詩壇」は意識されていない。ぎりぎりの生存の美学があるのみだ。

 愛の強さゆえに、時空を超えて再会することができた、映画『インターステラー』の父娘のように、武貞=紫野氏も、いつか、弟さんに会われんことを切に祈る。

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2014年12月14日 (日)

『アベノミクス批判──四本の矢を折る』──極右政治家(海外メディアの表現)安倍晋三の胡散臭さを実証的に分析(★★★★★)

アベノミクス批判──四本の矢を折る』(伊東光晴著、2014年7月、岩波書店刊)

 伊東光晴は、『ケインズ』(岩波新書)の翻訳もあり、長きにわたる雑誌『世界』の論客であるが、そのためか、「岩波文化を代表する」などと形容されることもあるようだ。「岩波文化の凋落」などと、本書を批判しているレビュアーもあるが、だいたい、「岩波文化」などと言うこと自体、歳がわかる(笑)。かつてそのようなものがあったとしても、そのようなものは、とっくに凋落していて、なにも本書とは関係がない。

 まっとうな(資料を駆使して、科学的に分析するスタイルの)経済学者ではあるが、本書は、経済学ばかりの本ではない。「アベノミクス」という、知識のない庶民、あるいは、あってもテキトーな政治家向けの、便利な言葉の胡散臭さを、とくに、「アベノミクスの三本の矢」(金融政策、国土強靱化政策、成長政策)という経済政策がいかに「不可能か」を実証的に分析しかつ、「隠された四本目の矢」をあぶり出すものである。四本目の矢というのは、ズバリ、憲法改正である。

 氏に言わせると、自民党内の右派は、中曽根、小泉、安倍。リベラルは、田中角栄、池田勇人、大平正芳である。そして、小泉は、「戦術上靖国参拝を利用した」。しかし、安倍は、心から靖国に祀られているA級戦犯を尊敬しているゆえに、靖国に参拝した。そういうことをありがたがる右翼の年寄りは、どんどん死んでいくが、だが、大丈夫、ネット界、出版界には、新しい右翼が育っている(合掌)。

 いま、2014年12月14日の、衆議院選挙の投票が終わったところであるが、いったい、どーなるんでしょーかね〜? これからの日本は。なお、日本の株式市場は、海外の市場に比べて特異なもので、海外投資家のバトルの場と化しているようだ。つまり、彼らの動きによって株価が上がったり下がったりする。べつに政権の政策とは、ずっと以前から、関係ないそうである。

2014年12月13日 (土)

『フューリー』──いかにして人は兵士となるか(★★★★★)

『フューリー』(デヴィッド・エアー監督、2014年、原題『FURY』)

 内田樹氏に言わせると、今は、「先の戦争と、これからある戦争との間にある時期」なのだそうだ。その考えに与するかどうかはべつとして、本作は、70年も前の戦争を描いたものでありながら、あたかも近代戦のような様相を呈している。「いま、そこにある、戦争」と言った感じがひしひしと伝わってくる。

 アメリカの元国務長官だったコンドリーザ・ライスは、クラウゼヴィッツ『戦争論』の愛読してたと言われるが、そこには、ナポレオン軍の「前衛隊」への考察が見られる。すなわち、戦場において、「本軍に行動開始の猶予と敵軍の実態および意図とをいち早く告げる」役目をしていた。ゆえに「いかにおしみなく人命を消費してしかるべきものであるか」が本質である。(『戦争論』中公文庫、清水多吉訳)

 本作のブラッド・ピットをリーダーとする戦車は、まさにそういう役割をしているように見える。「本土決戦」となり、戦場と化した一般市民のドイツの町を、「制覇」していく──。その「行程」がこの映画の「物語」である。

 そんな「前衛」にありながら、奇跡的に生き延びていた、「フューリー」という名の戦車。それは、ブラッド・ピット扮するリーダーの指揮力のおかげである。年季の入った4人組のなかに、入隊8週間のノーマンが加わる。実際のナレーターではないが、戦争の残虐さになじめないこの繊細な青年の目を通して、この戦争が語られていくように思われる。

 やがてこの青二才は、戦争のヒーローになっていく。ブラッド・ピットが、入隊したばかりで、戦場にも兵士たちにも嫌悪感を露わにしているノーマンに言う──。「Idea is peaceful, but history is brutal」(「考えは平和をめざしても、歴史は残酷なものだ」)。

 ピットがドイツ語をしゃべってドイツの町々を行く。不謹慎だが、それがなんとなくセクシーでさまになっている。たった4人で、何百というドイツ兵と立ち向かったことが非現実的であるといって、映画の評価を低めていたレビュアーがいたが、その人は、いったい映画になにを求めていたのか? まさか、ほんとうの戦争のリアルな映像を期待していたのではないだろうね? そういう精神構造の観客がそら恐ろしい。無冠のブラピには、本作で、なんらかの賞を与えられてほしいと、ファンでなくても思うのである。

2014年12月10日 (水)

『寺山修司全歌集』──効率のいい歌集(★★★)

『寺山修司全歌集』(寺山修司著、2011年9月刊、講談社学術文庫)

 寺山修司全歌集中、もっともできのいい、第三歌集『田園に死す』から始まって、しかも、もっとものできのいい歌、

 大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ

 が、最初に収録されている。ゆえに、この歌集、最初の方だけ読むだけでも、寺山修司の神髄を味わうことができる。映画『田園に死す』でも、これらの歌は、寺山修司本人によって朗読されていて、その歌の文字が画面に大きく現れ、その少しナマった棒読みは、なかなか魅力的である。ただし、ほんとうの寺山はナマってなかったようである。このことひとつとっても、彼の歌集は、たぶんにフィクションで、そこがおもしろいのである。寺山の死後も生き延び、「寺山記念館」などを作って管理している氏のご母堂は、いつか出たラジオでもしっかりとした口調で話す人であったと記憶している。

 また解説の塚本邦雄御大は、寺山を天才と褒めまくりであるが、塚本自身、妻子はありながら、男色の人であったと聞く。さらに「第二解説」の、穂村ひろし、本歌集が、「全歌集」ではないと、わざわざ入れているが、それ以外にとくに情報なし。ことほどさように、歌人というのは、どうしようもない人々である(笑)。

 この歌集よりインスパイアされた、拙作を載せておく。

 亡き母と歌われし母生き延びて歌人の墓を笑みで守りする

 地獄ふぇちアウシュヴィッツは地獄外寺山修司全歌集

 涎ごと讃辞垂らせり塚本の真の恋人寺山修司

 もしかしたら、寺山修司は、短歌より俳句の方に才能があったのかもしれない。しかし、俳句界には、彼を世に出した、中井英夫(『短歌研究』編集長)や塚本邦雄のような人がいなかったし、今も、寺山の俳句のような俳句を受け入れる余地はあまりないように見受けられるのは、まことに残念である。そのためかどうか、塚本は解説で、まず、寺山の句を紹介しているのである。

 目つむりてゐても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

 秋の噴水かのソネットをな忘れそ

 西行忌あふむけに屋根裏せまし

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2014年12月 9日 (火)

メジロくんが来てくれた

   ミカンを切ってベランダの台に置いておいたら、メジロくんが来てくれました。コタツよりバードウォッチング(笑)。

    蜜柑にて来客御礼寒メジロ 山下


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2014年12月 8日 (月)

『フランクフルト学派』──二流詩人にして三流学者の私的エッセイ(★)

『フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(細見和之著、2014年10月刊、中公新書)

 著者は、「アウシュヴィッツ以後も」、マラルメ風言葉遊びのような、ヘナチョコ詩を書いている詩人である。そっちはあまり注目されてないが、一応学者でもあるので、こういう著書の依頼が来たと思われる。本書以前に、講談社の現代思想シリーズで、『アドルノ』の巻を担当している。

 本書の題名を見て、著者名に躊躇したものの、題名で即買いした。買って損したとは思わない。現代思想にとって、重要な、思想家を多数輩出した「フランクフルト大学」が生み出した学者たちについて、どんな言及がなされているか、無関心ではいられないからだ。本書は、「ですます」調によって、「無知なものに語る」というスタイルなってしまっていて、しかも、著者の「考え」が紛れ込んでいる。こうして書物は、「入門書」としては百害あって一利なしである。

 ちなみに、「フランクフルト学派」、最重要の思想家、アドルノについて、真のこのような書を執筆にするにふさわしいと思われる三島憲一は、このように書いている。

「(重要な著書『啓蒙の弁証法』において)市民的な主体は他者への支配、自然への支配、自己の自然への支配によってなりたっていることが、オデュッセウスの昔に遡って叙述されている。それはまた自然の中に人間世界を読み込んでいた神話暴力が実は理性の誕生であったことと裏腹である。神話はたしかに世界的な啓蒙過程によって消失していったが、逆に神話にあった野蛮は現在理性の姿をとって回帰している。現在では学問はいっさいの自己反省能力を喪失した管理の手段でしかないし、芸術は異なった世界への超越という機能を見失ってしまったし、されに倫理はもはや根拠づけができなくなっている」

「特殊性を一般性に包括する概念によって非同一的なるものは損壊されざるをえない」

(『現代思想 ピープル101』新書館、1994年刊)。

つまり、著者も、ここで批判されている「管理の手段の学問」をしている学者にすぎないことをいみじくも露呈している。

 新書は、最近、伝統ある新書でも、玉石混交の、「石」の比率が高すぎるようである。本書などもその一例である。

2014年12月 7日 (日)

『インターステラー』──よくわからない世界をよく映像化している(★★★★★)

『インターステラー』(クリストファー・ノーラン監督、2014年、原題『INTERSTELLAR』)

 相対性理論が何かも理解できないうちに、相対性理論は間違っていた……などという説もでている21世紀。この先、理論はどんどん変化し、宇宙像もそのたびに変化するかもしれない。ワームホール、ブラックホール、空間のねじれ、5次元などと言っても、いったいどうなったものやら、見当もつかない。そこのところを、まあ、こんなものじゃないかと、よく映像化し得ていたと思う。

 なんせ観客に、「宇宙の旅」を「体現」させてくれるのだから。空間はねじ曲がっていて、いずれ、「元の場所」に戻るというのも、きっと相対性理論にうちだろう。宇宙の遙か彼方にいってしまった主人公が、過去の時間の、娘と自分自身に伝える「手段」が、モールス信号であるというのは、なんとなくリアルな感じもする。

 長い作品であるが、ダレずにすんでいるのは、子役がおとなになって、息子役にケーシー・アフレックが、娘役に、ジェシカ・チャスティンが登場するからである。名の知れた実力派俳優の登場は、荒唐無稽なストーリーに信憑性を与える。途中の宇宙で、信号を発し、眠って待っていたマン博士役のマット・デイモンしかり。

 それにしても、私は、主人公の頭のいい娘の成長した姿が、ジェシカ・チャスティンと知って、この映画がすきになった。彼女は、一見線の細い美人といった風貌ながら、あるときは、パープリンの人妻、あるときは、オサマ・ビン・ラディンを追い詰めるCIAオフィサー、あるときは、謎のお色気女、あるときは、ノスタルジックな母親……と、それらしくないカメレオン俳優なのである。

 今回は、ミッションのために、帰る可能性が多いとはいえない、遠い宇宙へ旅立った父を待ちつつ、マイケル・ケイン扮する老博士の間違った理論を立て直し、父の帰還に貢献する科学者となる。マシュー・マコノヒーも熱演であったが、やはり、この「娘」の支えあっての「父」であろう。

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