« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

2015年2月28日 (土)

毎晩聴いてるアルバムはこれ。

(ブログのTwitter的使い方(笑))



Img_2775


2015年2月25日 (水)

昨日のランチ

昨日のランチ。


最高にうまい(って、自分で言うか(笑))スパニッシュ・オムレツ(卵、じゃがいも、玉ねぎ、ツナ、オリーブ油、バター)、バジル風味の野菜スープ、パン・ド・カンパーニュ、たんかん(柑橘類、屋久島産)、コーヒー。
Img_2748

2015年2月23日 (月)

『アメリカン・スナイパー』──うまい。(★★★★★)

『アメリカン・スナイパー』──うまい。(★★★★★)

『アメリカン・スナイパー』(クリント・イーストウッド監督、2014年、原題『AMERICAN SNIPER』)

 今回も、「大きな物語」に取り込まれることを回避し、あくまで狙撃用ライフルの、光学照準器(スコープ)の視界を「見せる」ことによって、イラク戦争というものをリアルに描き出している。戦地、人々、空気など。少年も、残虐者も、スカーフを被った女も、髭を生やした男も、すべてスコープの中の世界にいる。観客はまるで、主人公とともに、イラクへ何回も行ってきたような疲れを覚えるが、描き出されているものは、民家のドアや室内にすぎない。実際はもう少し、俗っぽい「回想録」なのかもしれないが、イーストウッドは、それをまたして純文学にしている。アメリカの「伝統」(?)である、ハードボイルド風に、主人公の生き様を描く。

 『ハングオーバー』に引き続き、今回も、「無駄にイケメン」(笑)のブラッドリー・クーパーであるが、2007年の、同じ海兵隊のスナイパーを演じた、マーク・ウォールバーグの『ザ・シューター/極大射程』の頃より、さらに進化した狙撃用ライフルと一体化したかのような演技はすばらしい。彼の傍らにいたのは、目標地点の、状況や湿度、空気の動きなどを読んで射手に伝える役目であろうか。射程距離は1キロを超える。弾道はまっすぐではないので、さまざまな状況が加味されなければならない。主人公のクリスは、こういったものをすべて読み、冷静な判断を下さなければならない。したがって、射撃はオリンピック並の競技となる。敵方もスナイパーはシリアから招かれた、元オリンピック選手。スナイパー対スナイパーの戦いが、本作の抑制されたクライマックスだ。

 それもこれも、すべて、「本部」では、モニターに映し出され、スナイパーの活躍も記録されている。ある歴史家によると、戦争の世紀というのは、第一次世界大戦からまだ続いているそうである。イーストウッドはそれを、今回も淡々とスピーディーに描くだけである。マカロニウェスタン時代に学んでいた映画の文法。今回も、そのうまさに、ただ脱帽というしかない。

2015年2月16日 (月)

ダイアナ・クラール、ニューアルバム『wallflower』──ジャズとは脱構築である。

ダイアナが子ども時代に親しんだ曲を選んでいる。リンダ・ロンシュタットへのオマージュ、『desperado』(リンダと聴き比べた)や、マイケル・ブーブレとのデュエット、『alone again』や、ブライアン・アダムスとのデュエット『feel like home』や、表題作、ボブ・ディランの『wallflower』、ポール・マッカートニーに頼み込んだ、『if i take you home tonight』など、珠玉といっていい作品群で、聴くほどにスルメのように味が出てくる。

 これらの選曲から、「ジャズを期待していたのに、ポピュラーソングとは……」と、怒る人々を国内外問わず、ネットで目にした。しかし、ダイアナの真骨頂は、これらをジャズにしているところである。ジャズとは、アレンジであり、スタイルであり、脱構築なのである。それを、ダイアナほど、体現しているミュージシャンはいない。

 アルバムの写真も、声も、まったく媚びていない、辛口が気持ちいい。
 そして、本アルバムの白眉は、なんといっても、最初に入っている、パパス&ママスの、『california dreamin'』である。「グレイの空の下、教会に入りひざまずき、祈るふりをして……カリフォルニアを夢見る……』、まるで、この曲のために、発売を、冬の季節にしたかのようである。グレイの空の下……、わんこの散歩時に、これを聴き、かつ、「いっしょに歌いながら(笑)」、カリフォルニアを夢見るのである……。パパス&ママスより、さらにスローに歌い出す、一節太郎(誰それ(笑)?)のようないぶし銀の声が、しだいにドラマチックに高まっていくのは、感動モノである。

「残雪やカリフォルニアを夢に見る 山下」

(って、なんの芸もない句ですが(笑))

Img_2732

2015年2月15日 (日)

『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』──失われたアイデンティティーを求めて(★★★★★)

『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』(アルノー・デプレシャン監督、2013年、原題『JIMMY P./JIMMY P. PSYCHOTHERAPY OF A PLAINS INDIAN』

 本来なら映画にしにくいものを映画にしている。というのは、人間のアイデンティティーは、その人間が属する文化と無意識の層で深く関わっている。それが侵された時、人は身体的に異常を訴える。映画でも見る通り、主人公ジミーは、肉体的にはなんら異常がない。ゆえに外科的な治療法では解決されない。薬も効果がない。こうした病への糸口、無意識の存在を発見したのは、フロイトであるが、その後、文化について、広くフィールドワークをして、文化人類学的分析を開発したのが、この映画の「医師」役の、ジョルジュ・ドゥヴリューである。しかし、一方で、フランスには、レヴィ・ストロースも存在し、彼らは同年生まれ(1908年)、同じような、インディアンとの生活をともにするフィールド・ワークもしているが、ここでは言及されない。

 精神分析にとって重要なのは、言葉である。従って、本作がセリフが多いのはしかたのないことである。本作で映画的に目を見張る場面は、インディアンの血など入っていない(イタリア、スペインの血は入っている)、ほんとうは、色白、青に近い目を持つ、かつての出演作『スナッチ』では、ブラピと見まごうほどであった美形の、ベニチオ・デル・トロが、ネイティブ・アメリカンになりきり、インディアンの言葉を流暢にしゃべってみせるところであり、また、「医師」から、絵を描くように言われた時、ペンキの塗られた紙に、さっと指で描いて見せるしぐさである。

 また、「医師」の、ジョルジュ・ドゥヴリューは、本名は、ジョルジ・ドボといい、当時はハンガリー帝国の一部であった、ルーマニアに出身で、父はリベラル、フランスびいき、母は保守、ドイツびいきの、ユダヤ人の出自で、その文化的不安定さは、インディアンでありながら、アメリカ人として従軍し、またインディアンゆえに差別を受ける(黒人ほどではないにしても)ジミーと重なるものがある。しかし、ドゥヴリュー(Devereux)とフランス風につけた名前の、evreuとは、ユダヤ人という意味であり、決して、そこから逃れたいわけではなかった。そうした二人が、インディアンの部族の言葉を介して、なんと!、ジミーの「エディプス・コンプレックス」を掘り当てる。そしてそれが、ドゥヴリューの、「分析医」としてのアイデンティティーを確立していく……。そういう、「医師」が「患者」に助けられる映画でもある。

 私は本作によって、今の時代こそ、文化人類学的分析がふたたび注目されるべきだろうと思わせられた。

 ドゥヴリューを演じる、アマルリックは、ほんもののドゥヴリューの写真(陰気くさい)より明るい雰囲気で、彼の持ち味のお茶目さも発揮されていて、なかなか難しい内容の映画にエンターテインメント的やすらぎを与えている。

 本作レビューでよく目にする、PTSDは違っていると思う。なぜなら、ジミーは従軍しても、誰も人を殺さなかったし、地雷を見つける作業は緊張は伴ったが、並外れてひどいものではなく、彼の心=アイデンティティーは、それ以前に、「粉々に」なっていたのだから。

2015年2月10日 (火)

『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密 』──おもしろいエピソード満載のくだらない映画(笑)(★★★★)

『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密 』(デヴィッド・コープ監督、2015年、原題『MORTDECAI』)

 ジョニー・デップというのは、人気者なのか嫌われ者なのかよくわからない(笑)。嫌いという人も多いような気がするが、フィルモグラフィーを見るかぎり、充実した映画人生を送っている。嫌われる原因は、この「へたれゆるキャラ好き」「女ずき」(実人生で?)体質ゆえか。ジム・ジャームッシュの映画で演じた詩人などなかなかよかったが……。実際は、どんどんクセのある役ばっかりになっていて、極めつけが本作である。はじめから、くだらないのはわかっている。おバカなのもわかっている。ココロザシが低いのもわかっている映画である。私はそういう映画がすきなんである(笑)。だから、とくにパスしようとは思わなかった。

 しかし、実際、かなりのスピードでハナシは進み、絵画が絡んでいるが、なにがなんだかわけのわからないうちに、終わってしまった、という映画である(笑)。原作は小説であるそうだが、ことさら漫画チックを意識している演出も、悪くないと思う。とくにいいのは、「美人妻」役のグウィネス・パルトローである。台詞回しがいいし、頭の回転も速そうで、しかも、スタイル抜群、ファッションセンスも抜群で、今回の映画、パープルのラルフローレン風ジャケットにチェックのミニスカートもいいし、ベージュのクロップド・レザー・ジャケットにネイビーか黒のストールを巻き、ぴったりしたベージュのパンツスタイルも、黒のジャケットに、首回りが深く開いた黒インナーも、オークション会場の衣装としては、気品があってよくあっている感じがした。すなわち、TPOをわきまえたファッション展開がすばらしかった。

 かてて加えて、ユアン・マクレガーのMI5の刑事。大学時代からずっと、この「美人妻」に片思い。そんな純な雰囲気も板についていた。かてて加えて、モルデカイの用心棒、ポール・ベタニー。映画では異形のような役でよく見かけるが、実際は、イギリスの舞台で鍛えた俳優であり、ジェニファー・コネリーの夫である。この人がまた、「絶対死なない」用心棒をうまくこなしている。そして、ジェフ・ゴールドブルムの、「クランプフ」なるアメリカの大富豪。スノッブでリッチな役柄が多いような感じだが、長身かつ鼻声、黒眼鏡で、決まり!なのか? そのほか、オークション会場の詳細とか、そういう、主役+主ストーリー以外が魅せる、ヘンな映画であることは確かである。

 学生時代(オックスフォードである!)のエピソードとして、マクレガーが、グウィネスの部屋のドアを開けてしまうと、ベッドには金髪のデップが下に、その上に裸でまたがっていたグウィネスがあわてて胸だけ手でかくし、何食わぬ顔でマクレガーを見る、そういうシーンがいかにもとぼけていておもしろかった。そんなシーンは満載なのである(笑)。

2015年2月 5日 (木)

わん太の節分

わん太の節分。赤いオモチャは、食事の前に決まってやるゲーム。これをしないとご飯にとりかからない(笑)。犬用知育玩具だが、すでにその構造を知り抜き、口にくわえて揺すって中のオヤツを出したり、わざとひとが寝ているそばまで来てゴロゴロやったりと自由自在。

ことちは、お豆は二、三粒しか食べませんでちた。ほかにおいしいものいっぱいあるので、大豆はほんの形式的にね(笑)。

Wanta's "the bean-scattering ceremony" on February 3rd, the eve of the first day of spring.

Img_2689

『ジャッジ 裁かれる判事』──題名とはうらはらの癒やされる映画(★★★★★)(ネタばれ注意)

『ジャッジ 裁かれる判事』(デヴィッド・ドブキン監督、2014年、原題『THE JUDGE』)

 舞台は、主人公のハンクが「敏腕弁護士」として活躍するアメリカ中部の大都市シカゴを抱えるイリノイ州と、母の死によって、長い間帰ってなかった彼の故郷、おとなりのインディアナ州の田舎。会話のなかにさかんに出てくる政治家たちのエピソード、「いくら活躍しても、人は、晩年のボケした覚えていない」ハンクが父に向かって言う、レーガンは、イリノイの片田舎出身、リンカーンは長い間イリノイ州に居住していた。

 そんな保守的な街がハンクの故郷で、主人公の父は、清廉潔白な判事をしている。住民からは尊敬されることもあれば、疎まれることもある。この「公正すぎる」父親に、反目して不良となり、父から少年院へ送られた経験もあるハンク。父を恨み続けている。だが、父は、真っ正直ゆえ、孫を殺されたにもかかわらず、かつては温情をかけた服役者にスーパーで出会って、「孫と妻の墓に小便をかけてやる」と侮辱され、帰り道で、その男を故意に車で弾く──。

 帰省中の、敏腕弁護士の息子を雇わなければならなくなる。息子は、父を無罪にできる。しかし、父は嘘を言おうとはしないし、また、ガン治療中ゆえの薬の副作用による記憶喪失で逃れるというテも甘んじて受け入れようとはしない。なぜなら、自分がこれまで下した「ジャッジ」が無効なものとなってしまうから。

 これまでのアメリカ映画だと、やはりどこかを曲げて、めでたしめでたしとなるところだが、この判事の父は、正直を通し、第二級殺人犯(ハンクの力によって、「第一級殺人」(極刑を含む)は免れる)として、ガンにもかかわらず、数ヶ月服役することになる。ハンクが、出所する父を迎えに行き、晴れて川の上に浮かべたボートの上で、昔の思い出を語りながら親子で釣りを楽しんでいる最中に父は静かに息を引き取る──。

 アメリカ版『和解』といったところか。不良かつ敏腕で繊細なハンクのキャラクターを、ロバート・ダウニー・Jrが、魅力的に演じている。若い頃は粗野なイメージの強かったビンセント・ドノフリオが、よい老け方をして、野球選手の夢を絶たれて故郷で穏やかな暮らしをしている兄に扮している。アクターズ・スタジオ出身の演技派であった。元カノ、ヴェラ・ファーミガも、余裕のある大人の女が魅惑的である。そして、父、ロバート・デュバルも、あえて老醜をさらけ出し、みごとな俳優魂である。そういう手堅い演技の役者陣と、ていねいな心理描写で、ものものしい題名とはうらはらの、見ていてどこか癒やされる気持ちのいい映画となっている。

2015年2月 3日 (火)

イスラーム

「私たちはイスラム教のことをほとんど知らない」というコメントをどこかで目にしましたが、それは、「自分は」ということでしょう(笑)。井筒俊彦の著作に親しんだものなら、イスラム教、あるいは、イスラームについて、多少なりとも知識はあると思います。
それで重要なのは、イスラム教の原典である「コーラン」は、いかにようにも解釈可能だということです。その解釈の違いが、さまざまな「宗派」を生み、その宗派がまた枝分かれし、それにさまざまな民族や個人、地域の事情などがからんでくるのですから、とても、「イラン大使館にあった最高指導者ハメネイ師のメッセージ」を読んでわかるくらいのものではないのです(イランはシーア派の国で、「イスラム国」はスンニ派。シーア派は、イラン以外の国では、貧しく虐げられている層が多い。ちなみに、イランへ行って、シーア派の寺院には一般旅行者でも「宿泊可」のようです(笑))。
どんな宗教でもそうですが、一枚岩でもなく、一筋縄でもいかないのです。それに政治などが絡めばなおさらです。
ついでに言えば、イランは、イラン映画を見ればわかるとおり、生活様式は欧米化された、洗練された国で、犯罪者の公開処刑が日常的に行われているサウジアラビア(さすがに、ネットでの公開はしていない(笑)。)や、「イスラム国」に占領されているシリア、イラクといっしょくたにしてしまうのは、見当違いも甚だしい。

2015年2月 1日 (日)

『その女アレックス』(Kindle版)──スジだけでできた小説(★★)

(ネタバレ注意──スジだけでできているので、なにか語ろうとすると、どうしてもネタバレにならざるを得ない(苦笑))

 巷で話題になっているから、今朝の5時頃Kindle版ダウンロード。大急ぎで「ページを繰り」、7時頃読了。「思わぬ展開」というので関心を持ったが、「想定以下」の「ありがちな」展開であった。

 日本語翻訳で読むかぎり、この小説には、欧米文お約束の代名詞が出てこない。原文を見てないので、そこは訳者の方が、そのように変えたのかもしれないが、とにかく、「アレックス」でずーっと通すので、「その女」は、もしかして、「男」かもしれないと予想したが、そうではなかった(笑)。

 アレックスという名の看護師が誘拐され、暴力をふるわれ(レイプなし)、座ることもできないような箱に監禁される。その箱は地上から2メートルか、吊り下げられている。一方で、画家のロートレックを彷彿とさせるような低身長の刑事がこの事件を追う。どうして誘拐がわかったかと言えば、「目撃者の通報」である。パリ警視庁はてんやわんやの大騒動(のように見える)。この刑事も、妻を誘拐され殺された経験があり(なんたる偶然(笑)!)心に傷を負っている。この二人の「主人公」の章を、代わる代わるに展開させる。

 アレックスを誘拐した犯人は、なんで誘拐したかと言えば、息子を殺された復讐である。その息子は軽度(?)の知的障害があった。しかしその「誘拐犯」は早々に死に、彼の携帯に残されたアレックスの写真や、電話をかけた記録などから、警察は、被害者の位置を探っていく。

 だが、被害者は逃亡に成功する。アレックスは、「なぜわたしなの?」などと思うが、連続殺人を犯している。しかし、それは、少女時代に性的虐待を受けていた兄(異母か異父)によって、強制売春させられた相手たちであった──。こういった事実は、しだいにわかってくることで、冒頭、少なくとも第1章では伏せられている。こういう、その人の意識を支配せずにはいられないような事実を伏せ、その人物の内面が描けるだろうか? なるほど本作は、スジだけでできているが、三流週刊誌の手記程度の内面描写はある。それを、以上の事実抜きでやるのである。完全なる「ズル」、破綻である。それ以外にも、ミステリーの「お約束」はまったく守られていない。もしかしたら、本作はミステリーではないかもしれない。ただの猟奇小説である。作者が最も書きたかったのは、アレックスが、兄に売春を強要され、その客の一人から、膣に硫酸を流し込まれ、その内部の組織が破壊されて、犯罪性を隠すため、かろうじて、看護師(アレックスも看護師)の母の稚拙な小細工(針金で通す)によって、尿道だけは確保したという事実だろう。現実にこのような処置でまともに生きていられるのかどうか、わからない。ほかにも、かなり暴行を受けてもそれほどの致命傷になっていないような描写もある。

 そのアレックスも死ぬ。一見、自殺だが、はて、と、カミーユ警部(ロートレック風の)は探る。

 その兄がとんでもないワルなのであった──。そういうストーリーであるが、伝統的な英国ミステリーの豊かさを支えているような街や自然、人物の描写は皆無である。謎解きも、謎もない。ということは、サスペンスもないから、やはり推理小説とは言えず、スジだけをどんどん展開させたものである。

 ある意味、アレックスが作中で愛読しているデュラスとか、カミュやクンデラ(チェコ出身だが)など、おフランス小説は、シンプルな文章が多いので、まあ、おフランス人にとって、小説とはこういったものなのかも。本書の著者は、自分が影響を受けた作家を巻末に並べているが、わざわざこんなふうにするのは、自分はほんとうは、まっとうな作家なのだと言っているのか(笑)? そのリストのなかにはプルーストもある。こういう三流週刊誌の手記のような小説の、いったいどこに、プルーストの影響が見られるのだろう? 

 「公募ガイド」で小説の書き方指南をされている若桜木センセイ流に言えば、「視点が混乱している」ので、公募小説の賞の最終候補に残ることは難しいかも……(笑)。主人公、アレックス、カミーユ刑事の、章ごとに変わる視点はともかく、ときどき、そのほかの人物の視点も入り混じる。視点の統一など、おフランス人にとってはどうでもいいのかもしれない。それが違っているとも言えないのが文学であるが(笑)。

 このテのハナシなら、松本清張でしょう、やはり。こんなものに感心して、「ストーリーは言うな!」などと叫んでいる人の頭の中はいったいどーなっているのだろう? ほんとうに背筋が寒くなるものを求めるなら、イーヴリン・ウォーの『囁きの園』(訳者によって、邦題はいろいろだが、この題名の翻訳がいちばんよい)をおすすめします。あまりの展開に思わず十字を切る(キリスト教徒でなくても)こと請け合い(笑)。しかも格調高い文学!

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
フォト