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2015年4月

2015年4月28日 (火)

大石良雄へのソネット

「大石良雄へのソネット」

夕闇の底冷えのする江戸の町をさまよい、

大石はふと思うのだ。

もしも、ああした事件がなかったら、

ただの昼行灯と呼ばれる平凡な男として、

生を終えたに違いない。

彼の胸に甘くよぎるのは、血まみれの大八車、

殿の、切り離された頭と体が載っていた、ではなく、

鈴ヶ森で鳴く烏たちでもなく、

山科で契った女でもなく、マーラーの交響曲第一番。

いまの聖路加病院のあたりが、殿が切腹された場所。

大石は二年後、自分の息子を含む四十五人の家臣とともに、同じ最後を遂げた。

四十六人の戒名すべてに、「刃」という文字が入れられている。

それは大石の望むところではなかった。

彼はむしろ「夢」と。

2015年4月23日 (木)

『インヒアレント・ヴァイス』──ピンチョン+ホアキン=痺れる夢の時間(★★★★★)

『インヒアレント・ヴァイス』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、2014年、原題『INHERENT VICE』)

 ノーベル賞候補の常連であるとされるトマス・ピンチョンは、いまやアメリカ最大の作家であるといっていい。しかし、その文体、スタイルは、生半可な映画化を許さない。ということで、本作は、初のピンチョン映画化作品である。いどむは、ポール・トーマス・アンダーソン、主演は、ホアキン・フェニックスといえば、もうとるものもとりあえず映画館へ駆けつけるしかない。

 ピンチョンの短編には、「エントロピー」(1960年)という作品もあるが、本作の原作の「インヒアレント・ヴァイス」(2009年)は、よく売れ、世間的には最も受け入れられた作品であるが、題名の意味は、エントロピー以上に難解である。作中でも語られるように、inherentは、「本来備わっている属性」という意味だが、viceには、悪徳、悪習、売春、制度の欠陥、性的不道徳など、ほぼ、悪徳と権力、制度とに関した、さまざまな意味があるからだ。

 物語の時間は、1969年冬から1970年夏の、ほぼ半年間。作中何度も語られる、「マンソン・ファミリー」の事件は、1969年8月に起きていて、いわば「その後」の時期、マリファナ中毒の探偵が、マンソン事件の象徴であるようなポップカルチャーの「ビーチ」をゆく。事実、映画では最後に、本では冒頭に、「Under the paving-stones, the beach!」(「舗道の下はビーチだ!」(1968年、パリのらくがき))なる言葉が刻まれている。

 マリファナでラリっているところ、突然現れた元カノが「ドック、あなたの助けがいるの」の言葉で、「なんとなく」腰をあげる探偵、ラリー・"ドック"・スポルテッロ、なんとなくイタリア系の名前(ピンチョンの作中人物は変わった名前が多く、しかもあだ名の挿入や、祖先を表す名字が使用される)。元カノの愛人が行方不明というが、愛人の妻とその愛人が、愛人の不動産王を精神病院に入れようとしているという。その愛人の所有地のひとつを訪れたら、後頭部を殴られて、気づけば、あちらさんの用心棒の死体といっしょに海岸に倒れていた──。一応「容疑者」にされ、「天敵」の、ジョジュ・ブローリン扮する、LA市警警部補、クリスチャン・"ビッグフット"・ビヨルンセン(こちら、北欧風のお名前)が現れる。

 ほかに、弁護士役のベネチオ・デル・トロ(真っ赤な上着が印象的)、なんとなくつきあっている風の女性裁判官、リーサ・ウェザースプーン、ヤバい状態にあるミュージシャンの、オーウェン・ウイルソンなどが「次々」登場して、言いたい放題の言葉をまき散らす。音楽は、曲の全部が最後まで流れ、経過する時間をリアルなものとして感じることができる。ブローリン愛用の「日本食堂」(笑)では、あのなつかしの、あの九ちゃんの「上を向いて歩こう」と「見上げてごらん夜の星を」がたっぷり聴ける(笑)。

 ヒップ(ほんとうは60年代の、権力的「スクェア」に対して、反権力文化を表す言葉)な時代のヒップな場所のヒップな時間。すばらしく美しい眼のホアキンとともに、捻れに捻れた時間の中へ入っていく。確かに「お話」は、よくある探偵モノ。しかしこの時代、権力とカルチャーが入り交じったまま抱き合っている。そういう「魑魅魍魎感」(?)を、例によって細部にまで懲りに凝った「小道具」(現実の女たちのヌードを描いたネクタイとか)と、ゴダールにも負けないオリジナルなアングルの「正確な」映像によってアンダーソンは描き得た。

 「色を売らないいい男」の御三家、ホアキン、ブローリン、デル・トロが、絡み合うというでもなく絡み合う、贅沢至極、疼くような夢の、ポストモダン・エンターテインメントの三時間。

2015年4月21日 (火)

ミシェル・フーコーへのソネット

ミシェル・フーコーへのソネット

きみにシェークスピアのソネットの有名な第十八番を贈ろう。

きみはまだドイツのある街にあるカント記念館の若き館長で、

そこで大変な間違いを見つけた。

だが、歴史はそれを問題にしない。

人々はそれを忘れ去る。

きみはドイツ語が得意で、世界は、まだ完成されていない。

きみは男の恋人のことを思う。

ゲーテがワイマールで人妻を思ったように。

鷹か、鷹だ。飢えた鷹だ。朝一で獲物を探している。

ゲーテがそれを詩にして、さらにベケットがそれを詩にした。

詩は、鷹の狙う獲物に似ているじゃないか。

実際、時間はなにを運ぶのか。

ベラスケスの『侍女たち』のなかには何が隠されているのか。

それは画家の視線とか"われわれ"の視線とか、そういったものじゃないだろう。

A sonnet to Michel Foucault

That Shakespeare's sonnet number 18 is given for you.

You are still young director of Kant's memorial hall in a town in Germany.

Where you've found a big mistake.

But history do not take notice of it.

They forget it.

You are very good at German, and the world is not comlete d yet.

You think about a male lover.

Like Goethe who thought about a married woman at Weimar.

Hawk? Yeah, a hawk. A hangry hawk. Seeking for prey first in the morning.

Goethe wrote him in his poem, and Beckett wrote them in his.

Don't you think poem looks like prey aimed by hawks?

What does time carry actually?

What is hiden in Velazquez,s " Las meninas"?

No, not painter's look, nor "ours" at all.

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2015年4月19日 (日)

『セッション』──生涯ベスト3(★★★★★★★)

『セッション』(デイミアン・チャゼル監督、2014年、原題『WHIPLASH』)

 

 美男美女はいらない。大仕掛けなアクションも背景も、感動的なストーリーも、ついでに、賞もいらない。そこには、音楽に、ジャズに見せられた魂だけがあり、そのドラマを、極度に「材料」をしぼったなかで展開される。観客がほんとうに見たいのは、具体的な細部=リアルだ。ひとはいかにして一流となるか、本作はそれだけを見せている。しかもこの分野は音楽、ジャズ。楽器はドラム。地味な楽器だ。ピアニストは数々浮かべど、私がいま思い出せるドラマーは、エルヴィン・ジョーンズだけだ。アメリカはなんでも学問にしてしまう。そして、ここニューヨークでは、ジャズは、大学の1学科である。主人公は音楽のエリート大学に入学して意気揚々である。ここまで来るのもやっとの人もいるだろう。しかし、ここには、「その先」がある。

 問題の教授の授業は、どうも、選ばれた学生しか入れないようだ。主人公は、なかば偶然、しかし、よく考えれば、主人公の根性によって、このクラス=セッションに入れる。しかし「その先」がある。

 原題通りのwhiplash=ムチの嵐。手は血みどろ。石原裕次郎の「おいらはドラマー〜♪」なんていう歌が口をついた(爆)。あの日活映画で、裕次郎も手にケガをしていた。裕次郎は、それを痛そうに押さえてドラムを打ち始める……。あまりうまい演技とは言えなかったが(笑)、あんな世界はちょろい。こちら、血みどろは日常。それがなにか?の世界。グループの主奏者は、もといた者から主人公へ、またべつの者へ、教授の胸先三寸で入れ替わり立ち替わり。「二番手」は、後ろで譜めくり。しかしみんな手は血みどろなのである。

 自動車事故で自動車が転倒しても、主人公は血みどろで演奏会場へ。体は手以上に血みどろ。それでも、主奏者の地位を失いたくない。過去にはウツになって自殺した学生もいた。ヤリ過ぎ教師は大学を辞め、主人公もドラムを捨てる。しかし、この物語はまだ「先がある」。

 あるとき、街で、偶然、鬼教師が、ジャズバーのセッションにゲスト出演していた。主人公はふらりと入っていく。気持ちよさそうにピアノを弾く先生。そんなことから、先生から、彼が指導している楽団に誘われる。

 この「コンペ」は、スカウトが多数くる。しかししくじれば、二度と誘いは来ない。などと先生に言われ、張り切ろうとする主人公。さて、演奏が始まる。いざ主人公がドラムの前に座ってみると、先生は、「今日は新曲をやります」と客席に向かって言う。聞いてねーぞー!。驚く主人公。まわりを見れば、自分にだけ楽譜が渡されてなかった……。焦るが、ま、いいや、と、「テキトー」にドラマを打ち始める。「おまえ、なにやってんだ?」まわりの奏者が驚く。先生が近づいてきて、「大学におれをチクッたな」と主人公の耳にささやく。これが事実かどうか、私は知らない。しかし、主人公は心理的にどん底に落ちる。知らない曲、教師の究極のイジメ!聴衆を前にした赤っ恥。「もうこれ以上どん底はないだろうと思っても、さらにどん底がある」とはマーフィーの法則である。さあ、さあ、さあ──。

 さあ、そこからが、ほんとうの「ドラマ」の始まりなんです(笑)。

 ジャズとは、自立である。一流とは、他者のしかけた最悪の事態から、瞬時に最高を目ざしてリカバリーきることである。

 われわれは、ここに、最高の教師を見る。乗り越えてこそ師である。われわれは、ドラムが、最高の音色を持つ楽器であることを知り、かつ、リズムはハーモニーであることを知る。

 19歳のとっぽい学生を演じた、マイルズ・テラー、当時26歳。この童顔に祝福あれ!

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2015年4月16日 (木)

『マジック・イン・ムーンライト』──恋愛の王道(★★★★★)

『マジック・イン・ムーンライト』(ウディ・アレン監督、2014年、原題『MAGIC IN THE MOONLIGHT』)

 これはですね、恋愛物語そのものなんです。しかも、ウディ・アレンだから、相変わらず「前衛」。もう達人の領域に達しているアレンは、べつに、落ち目のヒーローに舞台をやらせて、「前衛丸出し」風の映画にしなくても、デビュー作(『なにかいいことないかい子猫チャン』?『誰でも知りたがっているのになかなか聞けないセックスのすべて』?)以来、ずーっと前衛なんです。いつも、俗物を嗤いのめしながら、見せるところはちゃんと見せる恋愛の王道を撮る。

 だいたい観客が映画館になにを見にいくかといえば、つまるところ、美男美女の恋愛なのである。今回は、コリン・ファースとエマ・ストーン。いいですね、男は。もうコリン・ファース、54歳なんですよ。エマ・ストーンの母親のマーシャ・ゲイ・ハーデンより1歳下なだけですよ。

 ま、それはともかく、他の方の(プロも含めて)レビューを見ていると、この二人が、いつ恋に落ちたかのかを問題にしている。これは、決まってるじゃないですか。初めて会った、その瞬間ですよ。それが恋愛ってもの。おそらく、「波動」がピタっときたのでしょう(笑)。それからは、いかに「相手につれなくするか」が、恋愛道のテクなんです。だってそうでしょう? この映画の中の御曹司みたいに、最初から「きみはすばらしい!」「愛してる!」「なんでも買ってあげる!」なんてオトコ、どこに魅力がありますか? え? ヴァン・クリーフ&アンペル(スポンサーとしてクレジットあり)の宝飾品の類? 恋愛というものは、「お金では買えない」んです。そして、この映画、初めからハッピー・エンドはわかっている。さて、どうやってそこまで、紋切り型を避けて導くか。それが腕の見せ所なんです。今回もアレンはやってくれました。終盤の、ヴァネッサおばさんとスタンリーの会話がすばらしい。決しておしつけがましいことはいわないけど、会話でもって甥の本心を露わにしていく。

 でかい態度、一度も「きれい」と言わない、そんなオトコの「提案」を誰が受け入れる? しかも、私の薬指には、でっかいダイヤがあるんですからね。『金色夜叉』では、「みやさん」はダイヤモンドを取った。それは恋愛を知らない東洋の女だったから。西洋の女は、恋愛を知っている。そして、ウィットでお答えする──そういう映画なんです。どうぞ、若いみなさん、本作から恋愛のイロハを学んでください。

 あ、そうだ。皮肉屋スタンリー、自分のことを、「ぼくは、ミザントロープだから」と英語で言ってました。『ミザントロープ』、すなわち、モリエールの『人間嫌い』(の原題)。引用は、シェークスピアとニーチェだけじゃなかったんです。今回も、大金持ちをまんまと嗤いとばしました。快哉!

2015年4月14日 (火)

佐藤優著『超したたか勉強術』──いま、あなたに必要なサバイバル

『超したたか勉強術』(佐藤優著、朝日新書、2015年4月刊)

 佐藤優の著作は実に多く、何かが少しずつ重複しているので、昔読んで、この著者の「思想」はわかっていると思うかもしれない。しかし、氏は氏なりにアップデートしている。そして、この著者の専門は、「宗教学」だし、外務省で、インテリジェンスの技術を身につけているし、ロシアにも長年赴任していた。こういう経歴から、氏がなにに強いかがわかるだろう。確かに氏の思い込みは強く、その「濃さ」(顔も含めて(笑))に辟易するムキもあるだろう。しかし本書は、今がサバイバルの必要な時期で、しかもそのサバイバルのため勉強術が公開されている。いま必要な勉強術とは、古典などを読むベーシックな基礎的勉強と、ネット、新聞、雑誌などから、ジャーナルな情報を選択、読み解き、この二つから、自分の頭で考えることだろう。氏はそれを、「思考の鋳型」を鍛えると言っているが、ワタシ的には、「フレーム」を作ることではないかと思う。

 本書がすごいのは、勉強術を公開しつつ、「シャルリー・エブド襲撃事件」と、「イスラム国日本人人質殺害事件」を解析しているところである。この二つの事件に関しては、『現代思想』誌などが特集を組み、多くの識者が見解を寄せているが、具体的な事実を並べて解析している手腕は、やはり、インテリジェンス活動をしていた氏の分析が最も納得させられる。

 氏は、神学出身のプロテスタント教徒であるし、完全なるリベラルでも右翼でもない。一定の固定した立場にあることはある。そのあたりを斟酌しつつ学べば、本書は非常に価値のある本である。

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2015年4月12日 (日)

『バードマン』レビューの補記あるいは、分析

 本作は、個人的にも好みの、というより、ほとんど自分の目ざしていることと近すぎて、いろいろ疑問が出てくる。いい映画ではある。それゆえ、時間をかけて考えてみたいと思う。

 たとえば、終盤、出番を控えた楽屋で、銃を出し、それに実弾である「マガジン」を充填した。銃は劇中の小道具であるが、ここで、リーガンが舞台の上で自殺を試みることが「示される」。それをさらに補強するかのように、幕の袖(そこから登場する)へと至る舞台裏の通路を歩いていくと、小道具係が、「何度も」、「リーガン、銃は?」と声をかける。リーガンは無視してすすむ。小道具の銃は受け取らない。実弾入りの「自前の銃」を持っているから。いよいよ、その場面、無価値のおのれの存在をののしりながら銃を出してこめかみにあてる……。バンッ!銃が発射されるが、(映画の中の)「暗転」となり、次には、リーガンは病院にいる。彼が「生きている」ことが「示される」。ここで、私は、「なんで?」と思った。では、あの「ほのめかし」なんだったのだ? 考えられることは、リーガンがおのれのこめかみを撃つ瞬間、気が変わって、銃を持った手をこめかみがら外した。それが遅れて自分の鼻を撃つことになり、「鼻を失った」。『ハングオーバー』のだらしないデブだったが、痩せて(笑)ヤリ手の弁護士となって登場しているザック・ガリフィアナキスが、「その鼻が気に入らなかったら、何度でもすきな鼻と替えるがいい」みたいなことを言われ、ついでに、「メグ・ライアンの整形医を紹介してもらうか」みたいな楽屋オチ的ギャグ(この映画には満載であるが)を言う。

 レイモンド・カーヴァーの作品「愛について語るとき我々の語ること」の舞台化であるが、登場人物の三人がテーブルを囲んでいて、そこに、リーガンの役が登場し、みたいなシーンが何度も繰り返される。芝居の全体は見せない。この場面と、ナオミ・ワッツとエドワード・ノートンがひとつベッドに寝ているところに、銃を持ったリーガンが登場し終局へと至る、このふたつの場面のみである。このあたりが、洗練されていると見る。つまり、素材としての芝居の場面は最小限に抑えられている。

 最後、顔の上部、つまり、バードマンの被り物をしているときちょうど隠れている部分と重なるが、その部分に銃の自殺未遂によるケガを保護している包帯というか絆創膏というか、白い当て布がされているが、ベッドから起き上がったリーガンは、鏡の前に行きそれをむしり取って、おのれの悲惨な顔をつくづく眺める。窓辺へ移動。窓をあけ、再び自殺の試み?と思わせる場面となる。そこから「飛び降りたかのような」印象を与えるシーン。娘のエマ・ストーンが花を活ける花瓶を持って戻ってくる。パパがいない。不審に思ってあちこち探し、窓が開いているのに気づき、不安な顔で近づく。窓の下を左右に探すエマ・ストーンの顔。やがて、視線は上の方へ向き、その表情のみで、リーガンがバードマンになって空を飛んでいるのだろうことが示される。ここは自然な動き、なめらかな表情の転換が必要とされるが、映画なら、編集でなんともなるので、とくに演技力は必要とされないかもしれないが、まあ、あの笑顔はそれなりの演技力ではあった。

 この映画について、「まるで切れ目なしに撮影されたかのような」ということが、「宣伝」もあるのだろうが、騒がれたが、いま、編集技術を高度になっているので、たとえそうであったとしても、そんなことをやっても意味のないことは監督自身がわかっているだろう。

2015年4月11日 (土)

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』──バットマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ成功)(★★★★)

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督、 2014年、原題『

BIRDMAN OR (THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE)』)

 本作の最大の瑕疵は、主役のマイケル・キートン自身が大した俳優ではないというところだ。なので、映画のテーマがどこかズレたものになる。当然ながら、「バードマン」は、「バットマン」のもじりだろう。いまや、バットマン俳優といえば、クリスチャン・ベールである。その昔、キートンは、日本で言えば、ショーケン(萩原健一)の子分を演じていた水谷豊のような、小チンピラが役どころであった。彼の俳優としての頂点は、「ザ・ニュースペーパー」で、三流新聞記者が意地を見せる役どころは、彼のキャラにぴったりあっていた。この映画は思いのほか豪華キャストであった。キートンは中年過ぎに、バットマンに抜擢され、「なんで?」と思った。あれよあれよというまに、老け、バットマンは何人かの俳優を経て、クリスチャン・ベールへ。そんな彼の俳優人生を「彷彿」とさせるストーリーの本作であるが、主題はきわめて玄人向けのものだ。よく、ハリウッドで成功した「映画俳優」が、舞台に立ちたがる。それは、成金が貴族の称号を願うようなものだ。ことブロードウェイは厳しく、ロンドンのウェストエンドでも同じことだが、たとえば、喝采を受ける舞台は、『ライオン・キング』『レ・ミゼラブル』などの、大衆受けと言ってしまえばそれまでだが、この分野にはこの分野の技術がいる。最近では、ジェイク・ギレンホールなどもしきりに舞台に出ているが、評判は聞こえてこない。そんな状況のなかで、本作の「元スター」、リーガンは、レイモンド・カーヴァー(村上春樹の「師」のミニマリスト作家)の作品を、自腹で舞台化する。劇場は、実在する、St. James劇場。すでにこの作品は、ブロードウェイでは「小品」である。それをめぐってのてんやわんやである。

 前衛的な舞台は、まず、グリニッジ・ヴィレッジなどにある小さな劇場で、小さな劇団などで上演されることが多く、それが成功すると、「オフ・ブロードウェイ」という中規模の舞台へ上がる。最終的な成功地点が、「ブロードウェイ」である。だから、初めっから、前衛でブロードウェイは、かなり厳しいものがある。そのあたり、本作では、うやむやになっている。どうせ映画の観客にわからないだろうし、監督本人もわかってないようだ(笑)。

 興味深かったのは、エドワード・ノートンと彼の演じるマイクである。舞台上でしか興奮できない役者は、おそらく珍しくないだろう。ノートン自身も出発は舞台で、舞台歴も長い。この登場人物こそ、もっと描くべきであっただろう。ノートンのデビュー作『真実の行方』は、「無垢な少年」が、ヤリ手弁護士のリチャード・ギアを文字通り食っていた……というわけで、メキシコ人の映画監督が思い通りにできるほど、ブロードウェイはヤワではない。アカデミー賞での高評価は、「無知がもらす予期せぬ」ものであろうと思われる。だいたいが、『バベル』も『21グラム』も、なんか観念的なだけで、映画的な深みが足りなかった。今回も、「やっぱりね〜」であるが、今回、星四つとしたのは、一つはエドワード・ノートンへ。あとの三つは、私の卒論が、「オフオフ・ブロードウェイ」だったので、個人的には、非常に興味深かったためだ(笑)。

(写真は2006年1月、ブロードウェイ@NYにて)

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2015年4月 5日 (日)

『ジヌよさらば 〜かむろば村へ〜』──松尾スズキの毒が生きるとき(★★★★★)

『ジヌよさらば 〜かむろば村へ〜』(松尾スズキ監督・脚本・出演、2015年)

 「大人計画」には2人の演出家兼脚本家がいて、1人は松尾、もう1人は宮藤官九郎で、役者だったクドカンの脚本家としての才能を見出したのは松尾だ。ふたりがそれぞれ、脚本+演出する舞台、映画を観てきたが、クドカンの方がキレがいい。だからNHKの仕事が来たのか。しかし、今回、松尾の映画を見て、モラリストぶりたい人間ばかりの今の世の中、松尾スズキの毒が必要かもな〜と思った。

 お金アレルギーの主人公「タケ」(と、村人に呼ばれるようになる)が、高齢化し、崩壊寸前の村に住み着くことになる。東京の銀行で融資課にいた頃、お金を「酸素のように」吸い取られ、崩壊していった人々を何人も見て恐怖症になってしまった。お金を使うことも見ることもできなくなってしまったタケは、辺鄙な村の「ボロ屋」と田んぼを買い、自給自足の生活を始めようとする。クセモノ揃いの村人たちとてんやわんやがあって、やがて村になじんでいく……みたいな、今の日本の若手監督が作っている、いろいろギャグがありながらも、ちょっとしんみりで……みたいな映画を「自動的に想像して」客席に座った。松尾スズキをすっかり忘れていたのである。映画は、オフビートに展開していく。やがて思っていた方向と違う方向に来ているのに気づく。主人公もただの純な青年ではない。なんでもクレジットを見ていたら、文化庁がどーたらこーたらと書いてあった。そうですか……。だったら、素晴らしい(笑)!

 本作にはかなりの毒が込められています。予備知識なく見た方、アテられないように、怒らないように(笑)。しっかし……相変わらずの、「大人計画」の面々である。カメレオン・オバサン、伊勢志摩。イケメンと紙一重デブの皆川猿時。若くてもバーサンの宍戸美和公。どこにでも転がっていそうな不良、荒川良々。そして、妙に「松たか子のダンナ」が似合う(笑)阿部サダヲ。……に加えて、パートのオバチャンにして革ジャンのオートバイライダーという、よくワカンナイキャラの片桐はいり。いったいどーなってんですか? あげくは、ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』のアレをパクって。結局、松尾スズキは犯罪がおすき。クドカンに比べて、陰に沈む。今回は、それが、今の資本主義社会のいきつくところを、奇しくも(?)描ききって、偶然かもしれないけど、性交……いや、成功しちゃったんであります。しっかし、やはり、あの松田龍平、スキモノが顔に出ているというか、じっと見つめていると、顔の奥から松田優作が浮かび上がってくるようで思わず合掌であった(笑)。

2015年4月 2日 (木)

『現代思想』「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」を読んで。

『現代思想』3月臨時増刊号(青土社、2015年2月刊)「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」を読んで。

「パリの襲撃事件は、西洋の怒りが偽善であることを示している」(ノーム・チョムスキー 佐野智規訳 )より

「表現の自由、『自由・平等・博愛』という神聖なる原理をフランスがどのように掲げているのかと尋ねることは、自然なことだ。たとえばゲソ法にはその原理が貫徹しているのだろうか? この法はくりかえし執行されているが、それは「歴史的真実」を決定し、またその決定からの逸脱を罰する権利を、国家に対して与えている。ホロコースト生存者(ロマ)の哀れな子孫たちを、ひどい迫害の行われている東欧へと放逐しているのはどういうことか? シャルリ・エブドのテロ実行犯たちをジハーディストへと成長させた、パリのバンリューに住む北アフリカ移民たちへのひどい扱いはどうか? かの勇猛果敢なジャーナリズム誌シャルリ・エブドが漫画家シネを、その発言に反ユダヤ的暗示が含まれているのではないか、という理由で解雇したことはどうなるのか? いくらでも疑問は湧いてくる。
 さらに、よりあからさまな不作為にただちに気づかないものはいないだろう。すなわちパレスチナ人こそまさに、野蛮な暴力からの「恐るべき挑戦」に直面しているひとびとである。ガザ地区に対するイスラエルの残虐非道な攻撃は二〇一四年夏、そこで何千人ものひとびとともに多くのジャーナリストが殺害された。ときにははっきりと報道マークがついた車中においてさえ。イスラエルが管理するこの野外刑務所はふたたび灰燼に帰した。調査が入ればたちまち崩れてしまうような口実に基づいて」

 デモに参加することが、自由意志によるアンガージュマンではなく、国家による強制となり、たったひとつの思想しか許さなくなってしまったフランスは、「警察国家」へと変貌しつつあるかのようだ。テロリストを擁護するわけではないが、そうして国家によって、テロリストの「実行犯」への選択を余儀なくされていくムスリムの「不良」たちは、「永山則夫」をふと思わせた。その詳細は、以下の討議に詳しいが、こちらは、安倍首相の行為についても言及しており、日本の事情なので、その箇所を引用しておく。

****

「罠はどこに仕掛けられたか」(討議 栗田禎子 × 西谷修)より

西谷修「そもそも、なぜこの時期に安倍首相がイスラエルに行き、親イスラエルの立場を鮮明にしたのか。そこに異様さを感じています。イスラム国に二人の日本人が拘束されているという事実は、外務省と官邸は去年から知っていたわけです。それを知りながら親イスラエルの立場を鮮明にしたのは、あえてなのか、とてつもない外交音痴なのか、そのどちらかでしかない。

 安倍としては、テロの戦争に加わることで集団的自衛権を現実化し、アメリカの同盟国としての『期待』に応えることで、靖国参拝も認めさせたい。さらには数少ない成長分野としての軍事産業(と原発輸出)を振興したいという思惑があるのでしょう。加えて言うなら、イスラエルにここまで加担する理由は、イスラエルが恒常的に戦争を行って最先端の軍事技術を保持していること、そしてガザのような地域を軍事的に占領している姿勢への共感ではないでしょうか。日本には沖縄もありますし」

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