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2015年5月

2015年5月24日 (日)

長尾智子著『85レシピと10の話 あなたの料理がいちばんおいしい』──「料理とは思想である」

『85レシピと10の話 あなたの料理がいちばんおいしい』(長尾智子著、2015年5月、KADOKAWA/メディアファクトリー刊)

 

 生物は食物を摂取しなければ生きていけない。それが人間の場合、日々の料理(こんな悠長なことを考えていられない状況の人々が世界には多くいるが)になる。日本のような余裕のある文明国になると、それが、「朝食は、昼食は、夕食は、なんにしよう?」が結構な問題となる。料理店で食べる、できあいものを買う、というのもひとつの選択肢ではあろう。しかし、毎日こんなことをしていたら、健康は、経済はどうなってしまうのだろう?と思う。なによりも、そういったものはすぐに飽きてしまうし、自分の生活を自分で作り出している充実感もない。

 そこで「おうちご飯」ということになるが、そのベースをどう形づくるか。いま、そんな考えのもと、さまざまの料理研究家が、すぐ手には入る新鮮な食材で、レシピを紹介している。だが──。近頃、私がいちばん買っているのは、西洋料理の基礎をも和食に取り入れ、レシピも今の時代にマッチするように研究している土井善晴だ。しかし土井氏の料理は、砂糖が多い(笑)。有元葉子もかっこいい料理研究家だが、どこかやっぱりお金がかかりそう(笑)。栗原はるみも人気で、なかなかよいが、手間と時間と、やはり材料費がかかりそう。私が評価する「三大料理研究家」は、以上の三人だった。

 しかしここへ来て、本書に接し、長尾智子のファンではあったが、日々の「おかず」に対してはエキゾチックすぎないか?と思っていた不満は解消された。まず、料理は、ただのレシピではない。システム的なライフスタイルでなければならず、お金はかからない方がいいが、味気ないのはつまらない。本書を読むと、料理に対する考えがちょっと変わる。「手抜き」などしなくても、時間が節約できる。お金をかけずにおしゃれにできる。「料理という思想」があってもいい。それは、そんなことを、「具体的レシピ」に添って納得させられる本。

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当ブログとだいたい同じ内容ですが、ここは写真のサイズに制限があるので、面倒で(笑)、写真などが中心の「日常的な内容」のものを入れておりません。要領に余裕のあるこちらのブログ↓も、お気が向けば寄ってみてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/vraifleurbleu39

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2015年5月21日 (木)

『ゼロの未来 』──自己模倣地獄(★)

『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督、2013、原題『THE ZERO THEOREM』

 原題は、『THE ZERO THEOREM』で、「ゼロ定理」。「未来」などどこにもついてないが、ギリアムのヒット作、『未来世紀ブラジル』にあやかってアピールしようとした狙いが見え見えである。こんな邦題をつけなければならないのだから、本作は、それほど画期的な作と言えないことはわかっていたはずである。

 しかし、多くの客は、クリストフ・ヴァルツを目当てに映画館へおもむいたと思う。このオーストリアだかの出身のアカデミー賞俳優を、私はあまりすきではない。だから、多少SFの方に期待した。善意に解釈すれば、「ゼロ定理」とは、ビッグバン宇宙がまた無に帰していくというものだろう。しかしドラマ全体を通して、そういうものへのテーマはあやふやで、お飾りという印象もある。

 主人公、コーエンの自宅、古い教会とか、端末機械、なにかの解析装置と試験管のような器具(これがかなりアナログっぽいが(笑))、ユーザーインターフェイス化された「ブロック」の画像(数式が決まらないと崩れる)、投げられたピザを穴から取りに来るネズミ(これだけはおもしろかった(笑))等、ディテールで引きつけようとしたのかもしれないが、それも、すでに既視感ありすぎの世界である。

 未来というなら、「いつの」未来なのか? たとえば、『2001年宇宙の旅』は、「1968年の未来」だったし、『ブレードランナー』は、「1982年の未来」だった。そういう意味では、本作が真剣に、「2013年の未来」を想像しているとも思えない。

 企業が社員の精神的健康のために、端末に送り込んでくるバーチャル精神科医。あの出っ歯のオバサン、チルダ・スウィントンに似てるなと思ったら、やっぱりそうだった(笑)。同じ2013年に制作された、『スノーピアーサー』に出てくる変なオバサンと顔がそっくりなのである。あのときは、よく化けたと思ったが、今回似たようなのを見ると、案外「素顔に近いのかな?」(笑)と思ってしまう。ギリアム自身も、ポン・ジュノ監督の『スノーピアサー』に対抗したのか? 確かにギリアムの方が知名度がある。しかし、本作は、近未来の恐怖を描いた『スノーピアサー』の足もとにも及ばない。もし、少しでも及びたかったなら、せめて、主役を、『スノーピアサー』のクリス・エヴァンスのような若くていい男にすべきだったのかもしれない。スキンヘッドのアーリア系オッサンじゃあ、悪いけど、まったく感情移入も同情もできない(笑)。

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2015年5月17日 (日)

『Mommy/マミー 』──映画作りを一から勉強してください(笑)(★)

『Mommy/マミー 』(グザヴィエ・ドラン監督、2014年、原題『MOMMY』)

 

 アイメーク・バッチリ、ほうれい線くっきりの、自称40歳、ほんとうは46歳の、「痛い容貌」(笑)の母親(シングルマザーには違いないが、夫が死ぬまでは普通に結婚していたらしいから、根っからのシングルではない)と、見るからにワルガキ丸出しの「許し難い容貌」(笑)の、15歳の息子。数えてみれば、30過ぎの子。べつに、「青春のアヤマチ」でできた子ではない。じっとしていられない病気があるらしいが、この病気が、映画では、病気のように描かれておらず、実際、こういう病気の子どもたちに対して迷惑である。どう見たって、ただのワルガキである。こういうのを、障害児といったら、「カワサキ国」の不良ども(18歳が中学生を殺した事件があった)は、みんな障害児である。そして、施設に息子を「請け出し」(笑)に行ったときの母親の態度は、週刊誌が記述する、例の「中学生殺しの18歳」の母親の態度を彷彿とさせる。この女は、水商売かなんか?と思うと、途中で、新聞だかのコラムを書く仕事をしていたり、翻訳までやっていたりするので驚く。それだけでは食っていけないので、掃除などもする「フリーター」なのだろうか。いずれしろ、いい家に住んでいる。それもそのはず、これは、カナダとは名ばかりの「架空の国」なのである。そして、問題児は病院に遺棄できるという架空の法案もできる。だいたい創作家は、いかにリアリティを持たせるかに苦心する。こんな、「これは架空なんです」で、話がすませられれば誰も苦労しない。

 ゴダールとともに、おフランスでは、なんか讃え賞されたらしいが、ま、そのゴダールも、すでに腐った鯛になり果ててますから……(笑)。

 カナダのフランス語が、また、英語のヤスリをかけたようで、なんちゅうか、メリハリのない、くたくたフランス語なのである。ここには、言語の美しさもない。

 脚本もよくない。ドラマ作りのノウハウも習得しないうち、「おれさまの感性を見ろ」ってな調子で業界に登場してしまったのだろう。行き着く先は→レオス・カラックス? おフランスには、そういう、「かつての若き天才」がゴロゴロいる。まさに、石っころになりはてて。このクソガキのあからさまな黒人差別は、いくら注意する母親のシーンを作っても許されないだろう。しかし、ま、冷静に考えてみれば、こういうクソガキを、演技でやっているとしたら、この役者には感心するワ(笑)。

 親子の愛なのか、不良の物語なのか、15歳のガキが隣のおばさん(この女優はわりあい感じよかったが、彼女の夫が、また「イヤな顔相」なのである)とやってしまうハナシなのか、テーマも曖昧模糊としているが、まあ、題名の「マミー」に従ってみれば、あきらかに母親が悪い。しつけもなにもできてないワルガキを、ときに甘やかし放題にし、ときに、遺棄するのだから。産んだら棄てるな、棄てるなら産むな。しかし、若い男性監督、それがテーマとも思えない(笑)。

 画面サイズを伸び縮みさせる「芸当」は、まったく意味なし。

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2015年5月11日 (月)

パプーシャの黒い瞳 』──詩が貧弱なのは残念(★★★)

『パプーシャの黒い瞳』(ヨアンナ・コス=クラウゼクシシュトフ・クラウゼ監督、2013年、原題『PAPUSZA』

 

 ジプシーの歴史は悲しい。まさに「旅を住処とす」である。迫害からの自衛ゆえに、仲間うちの掟は厳しい。そこでの女性の地位は高いとはいえず、そんななかで、同じ迫害されている民族のユダヤ人のカフェ経営のおばさんから、読み書きを習う主人公、通称、パプーシャ。彼女がどんなふうに詩人になっていくかが描かれているのかと期待して見たが、詩の部分はあまり多くなく(おそらく、それほど印象的な詩はないのかもしれない)、映画のなかで発表されたものも、訳詩を通したかぎりでは、凡庸さを否めない。

 映画は時間を前後させて構成されているが、それほど効果的とも思えない。ただ、ジプシーの暮らしはよくわかった。そして、音楽を武器できることも。

 物語の中心はパプーシャを「詩人」として認め、世に出す手助けをする「よそ者」の男との愛。彼は、警官をなぐって逃亡中、友人を介して、ジプシーの群れのなかに身を隠す。二年間彼らと暮らし、パプーシャを知る。そこには愛があるのだが、その愛も、ジプシーゆえにまっとうできない。不幸なすれ違いがあるのみだった。その男は、パプーシャの詩を売り込むとともに、ジプシーについての本を出す。言ってみれば、文化人類学的方法だが、その本がジプシーの秘密を明かしたということで、パプーシャとの関係も微妙になる。モノクロの映像は美しいが、強さに欠ける作りとなったのは、残念である。

 同じモノクロ映像で「詩人」を描いた、ジャームッシュの『デッドマン』(1995年)のような神秘的なウィットがほしかった。

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2015年5月 9日 (土)

『女神は二度微笑む』──サタジット・レイを観なおすべきか?(★★★★★)

『女神は二度微笑む』(スジョイ・ゴーシュ監督、2012年、原題『KAHAANI』)

 IT立国インドの底力を見せつけた映画。よくできた脚本をもとに、演出もカメラワークも一流。俳優の演技力もハリウッドにひけを取らない。極上のミステリーながら、民族的アイデンティティもしっかり保持し、キリスト教より古い、ヒンドゥー教文化をこころゆくまで堪能させてくれる。

 舞台は、コルカタ。昔はカルカッタと英語読みで呼ばれた、インド第三の都市だ。そこは地下鉄もあれば、IT研究所もある、欧米の都市と引けを取らない街ながら、いまの中国とは逆で、近代的なインフラの上に、数千年の民族文化をのっけている。そんな場所が舞台。イギリス在住のコルカタ出身の身重の女性が、この街で行方不明となった夫を捜して、まずは空港からすぐ地元の警察へ。そこの警察官を中心に物語は動いていく。男尊女卑のイメージを勝手に持っていたが、当地の男性たちはなかなかフェミニストである。夫が泊まっていたとされる安宿に滞在し、警察の協力もあおぎながら、独自の調査を開始する美しきヒロイン。プログラマーなので、ハッキングも武器のひとつである。どんなハードな状況にもひるまず、街かどの子どもや老人を、温かい人柄で味方につけていく。

 だが、物語は迷宮にようになっていく──。どんでん返しにつぐどんでん返し。最後の最後まで来て、「ああーっ!!!」と思いもよらぬ結末。そのとき、観る者は、ミスディレクションを取らされていたことに気づく。思い返せば、小さなエピソードのひとつひとつが伏線であり、意味を持っていた。そして、ヒロインは、ハリウッドのアクションものの誰よりかっこいい。

 ほぼ全編、当地の言葉、ベンガル語で展開される。しかし、ベンガル語を話す人口は、主に話されているバングラディシュを含めて、二億人という。ノーベル賞詩人、タゴールも、ベンガル語の詩人だった。そして、あの、インド映画の巨匠、サタジット・レイを生んだ都市、それがコルカタだったのだ。ここへ来て、やはり、サタジット・レイを観なおすべきかと、自問するのだった。

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2015年5月 7日 (木)

『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇 』──これは何ですの〜(笑)?!(★★)

『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇 』

(シャウル・シュワルツ監督、2013年、原題『NARCO CULTURA』

 一応題名から、フィクションと思って、客席に座って見ていたら、どうもドキュメンタリー(らしい)(笑)。でも、なんでフィクションかと思ったかと言えば、語り手がいて、その語り手が主役のような感じもしたし、物語めいた構成方法だったのだ。しかしやがて、ドキュメンタリーと気づいたのは、一向に「オハナシ」が見えない(笑)。ただ、最悪麻薬戦争の現場となったメキシコのある街を「取材」しているだけ。2013年の作だから、もしかして、あの「イスラム国」は、これをコピーしているのかも……。原題は、「NARCO CULTURA」スペイン語で、「麻薬密売人文化」という意味。この地で、流行っている、ナルコ・コリードなる音楽の歌手の生き様と、淡々と死体のデータを保存する警察官の生き様を対比させるように「描いている」。

 このナルコ・コリードなる音楽、ヒップホップと書いているレビュアーがいらっしゃったが、それはちがう。おそらくヒップホップをコピーしているのかもしれないが、まあ、ご当地ミュージックとでもいうのか(笑)。その歌詞の内容が、まさに、「麻薬密売人文化」を讃えているのだ。そういう「ミソクソ文化」に、頭の悪い青少年はあこがれ、同じようなアヤマチが繰り返されていく──。

 しかし、音楽は決して洗練されおらず、深みも、新しさもない。どこかで聴いたような、甘ったるいラテンの曲に、内容だけが、ナマの麻薬戦争を歌っている(それもそのはず、リアルの密売人に取材し、彼らの注文で作っているからだ)だけだ。『トラフィック』の世界だが、ああいう「けじめ」はどこにない。すべてが「けじめ」のない世界の話だ。ある密売人の若者は、一度だけ拷問したことがあるとインタビュアー(誰かわからない)に告白する。「なにも感じなかった。バットで後頭部を三回殴ったら、パカンと割れた」てなことを言っている。感じなかったが、「忘れない」光景だと言う。ここで、私は、その昔、アステカ文明だったかも、人身御供の頭部を切り離していたことを本で読んだのを思い出した。ここでも、ある種の麻薬を飲んで、残虐なことが容易にできていた。そう、麻薬をやっていれば、人間の感情を持たずに、同じ人間に対して残虐なことが「なにも感じずに」できる。

 それだけが、印象に残った、妙な映画だった。

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