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2015年6月

2015年6月30日 (火)

二人のノーベル賞経済学者、ギリシア首相を支持

おはようございます。朝のニュースです(笑)。

経済破綻寸前で、EUが緊縮財政案を提示、ツィプラス首相がそれを拒否したギリシアですが、その緊縮財政を受け入れるかどうかの国民投票が近々行われます。古典的経済学者は、EUの主張を指示しているようですが、二人のノーベル賞学者が、ギリシアの首相を支持(ブログなどで)しています。

ジョセフ・スティグリッツは、EUがギリシアに求めているものは、ギリシアの民主主義への不当な介入だ、国家の自立のもと、昔のようによくなっていく可能性がある、としています。

ポール・クルーグマンも、たとえ経済的不況になっても、EU下での今ほどの地獄はないだろう。いまのギリシアの経済破綻は、EUの野蛮な政治のせいだ。EU下では、牢獄のままだが、自由になれば、よくなる可能性もあるとしています。

「EUの属国」となって、永遠に「お荷物」であり続けるか、貧しくとも希望を抱いて立ち直ろうとするかの道か、と思われます。

フランスの新聞「LIBERATION」の元記事↓

http://www.liberation.fr/monde/2015/06/29/deux-nobel-d-economie-au-secours-de-tsipras_1339529?utm_campaign=Echobox&utm_medium=Social&utm_source=Facebook

ジョセフ・スティグリッツのエッセイ↓

http://www.project-syndicate.org/commentary/greece-referendum-troika-eurozone-by-joseph-e--stiglitz-2015-06

ポール・クルーグマンのブログ↓

http://krugman.blogs.nytimes.com/2015/06/28/grisis/?module=BlogPost-Title&version=Blog%2020Main&contentCollection=Opinion&action=Click&pgtype=Blogs&region=Body&_r=1

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2015年6月28日 (日)

『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』──フィールドワークの憲法学者

『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(水島朝穂著、2015年4月、岩波書店刊)  

 ある既存の思想があり、それに即して、今の政治がいいとか悪いとかいう著作家もけっこういる。そのなかで、いま、信頼できる著作家とは、フランスの人類学者、エマニュエル・トッドなどの、思想的にはごく普通の良識を持ち、思想的発言は、現実のデータや、具体的事実を提示して分析する学者、著者である。水島朝穂氏もそういったひとりであり、「集団的自衛権」が喧しくなるはるか以前から、政治と憲法を、具体的なデータ、現実的なできごとを丹念に取材しながら分析を続け、平和憲法遵守への提言を行っている。

 本書を読めば、いかに人々が一般市民も、政治家さえも、「集団的自衛権」なるものを、わかってなくて、やいのやいの言っていることがよくわかる。これは、自分は攻撃されていないのに、よそのヤクザに攻撃された隣町の「舎弟」の助っ人に出るようなものと、わざわざ「俗な表現」を使い、著者自らが説明している。

 自国が攻撃されたら、「最小限の武力で守る」、これが、従来の自衛隊の存在理由であり、それでも、違憲か合憲かが争われてきた。著者は当然、それさえ否定する立場である。なぜなら、他国から攻撃やテロは、暴力が暴力を生むだけであり、サッチャーが決断したフォークランド紛争で、イギリス、アルゼンチン合わせて、無駄に1000人の死者を出してしまった「戦争」が起こりうることもあるからである。あの「事件」は、本来、イギリスが話し合いに応じたら、回避できたとされる。それをサッチャーは不人気を回復するため、ヒーローとなったのである。同様の事態が、いま、日本の安倍政権にも起こりうる可能性を与えている。

 安倍政権は、ぎりぎり合憲としてきた「最小限度の自国を守る武力」=個別的自衛権をも踏みにじり、攻撃されてもいないのに、戦争ゲームに参加する道を歩み出そうとしている。

 そして、自衛隊など「軍隊」が教えられる戦闘術=銃剣などで確実に人を殺す、と、警察官が教えられる武術=犯人逮捕のため、脚などを撃つ武術の違い、地雷の構造なども、具体的な写真(水島自身が撮影している)も載せて、テッテイ的に「リアル」に説明されている。現実あっての法律であることが、とことんわかるように説明されている。それが「ライブ」のひとつの意味であり、リアルタイムで、ブログでフォローしていく、それがもうひとつの意味である。

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2015年6月27日 (土)

詩「鹿児島中央」

「鹿児島中央」

さくらは、そのような名前の駅へ向かって走ります

「かごしまちうおー」という音が私の頭のなかで響く

それは、三波春夫の『俵星玄蕃』の、「めざすは、まつざか、ちうおー」という音と「完全一致」する、しかし

三波の語っている言葉を文字にすれば、「目ざすは、松坂町」、つまり、「ちうおー」と発音された言葉は、「中央」ではなく

「町」であった、つまり、

三波は、「まつざか、ち・よ・お・う」と発音し、それが、

「ちうおー」と聞こえるのだ

なぜか、三波は、俵星玄蕃が槍を取って、赤穂浪士の討ち入りの助太刀に行く場面をセリフで描出するのに、

「松坂町」の、よりにもよって、「町」の文字をいちばん強調しているのである

その理由は、それが歌へと移るセリフ部分の最後で、歌へと

繋げるため、劇的場面を盛り上げるために、この物語には

あまり意味のない、「町」という言葉を最大限に印象深くかたっている

なにも江戸時代の人形浄瑠璃の語りなどを、わざわざ「古典」から「学ば」なくても、われらが三波春夫が全部やっちまっているんである、あの

唇を噛みしめて、ぐいとエネルギーをため込んだ発声のしかたで、日本人の最大限の「劇的」を歌い込んでいく

めざすは、まつざか、ちうおー

小倉駅のホームで、「鹿児島中央」と、電光掲示板に表示されたその文字を見るたびに、三波の声がよみがえるのだ

しかし、住んでいる博多から小倉へ新幹線で行くとき、当然ながら「鹿児島中央」はない

それは「新大阪」だったりする

ところで道場で槍を教えている玄蕃は、真夜中、山鹿流の陣太鼓の音を聞いて、いざ助太刀と、長押の槍を取って雪の夜の江戸の町に飛び出す

その陣太鼓の合図は、「いちうち、にうち、さんながれ」である。

「ゆきをけたてて、さっく、さっく、さくさくさくさく──」

「昼間別れた蕎麦屋はおらぬかあ〜?」

「せんせーい!」

「おお! そばやかあ〜!」……おっと今はもう弟子の蕎麦屋ではなく、赤穂の義士、名は、羽織の襟に書かれている、杉野十平次どの。

持ち出した「武器」は、刀、槍、のほかに、げんのう、のこぎり? つまりはDIYの道具?

吉良の首「かくにん」

明け方にはすべて終わり、一向は、菩提寺である、高輪泉岳寺へ

「汽笛一声新橋を〜♪」やがて「高輪泉岳寺、四十七士の墓どころ〜」

そして「鹿児島中央」、かごしま、ちうおー!

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2015年6月21日 (日)

ほんとうの詩の朗読はこうあるべき

ほんとうの詩の朗読は、こうあるべき。

日本では、よく、政治家の演説もそうであるが(笑)、自分の詩なのに、原稿を見ながら朗読しているのを見受ける。だけど、自分の詩なんだから、諳誦して朗読したら、どうだ? あれは一種の照れ隠しなのか(笑)?

この若き詩人は、かつては、女性だった。今、男性へ移行しつつある「トランスジェンダー」である。彼は、かつて女だった自分への手紙を詩にしている。

エミリーへ。

野球放送を見ていて感じたこと、父との関係、乳房を削除し、生理を止めたこと──。外面と内面に起こったことを誠実に詩にして、かつての「女だった自分」への惜別としている。詩は訳しません。それぞれが味わってください。

最後に、「エミリー、きみを憎んだことは一度もないよ」

http://www.seventeen.com/life/news/a31575/a-letter-to-the-girl-i-used-to-be/

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中国の「食犬祭」について

雑誌の『TIME』は、「中国の王林市の、(犬を目の前で殺して食べる)「食犬祭」に対して、動物愛護の運動家やネット市民から空前の怒りの声があがっているが、反対の叫びをあげる前に知ってほしい5つの事柄」として、去年書かれた記事をリンクしている。

(写真のケージのなかの犬は、1匹だと思ったら、もう1匹が下にいて、狭いなかに重なっているのだった)

http://time.com/2891222/china-dog-eating-festival/

("TIME" Jack Linshi @jacklinshi June 18, 2014の記事)

1、現実である。

 地方では、冬に犬の肉を食べると体が温まると信じるられている。しかし王林市の夏至の「食犬祭」は1990年頃から始まり、犬の肉を食べると、幸運と健康に恵まれるとしている。この祭で1000頭以上の犬が殺される。

2、中国には、動物愛護法はないが、専門家は、この祭自体が違法であるとしている。

 2009年に動物虐待の罪の草稿を作っているが、これによると、違法者に対し、900ドル以上の罰金と2週間の拘留を提案している。2013年に農務省を通過、動物の出荷などが禁止されているが、犬たちは盗まれたりしている。

3、今年の祭に対するソーシャル・メディアを通した怒りは空前のものである。

 数十万の中国のネット市民がこの祭に反対の声をあげている。

4、祭は、抗議者やジャーナリストを避けるため、早めに始まったらしい。

5、よその市の「食犬祭」( the Jinhua Hutou Dog Meat Festival)は、過去に禁止されたが、王林市は、そのような行為は存在しないと主張している。

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2015年6月20日 (土)

南スーダンで起こっていること

南スーダンの内戦で、複数の対立する軍隊が争い、数万人が殺されたが、なかで、子どもたちがひどい被害にあっている。強姦、去勢、複数で縛られたのち喉を掻き切られたり。8才の少女が輪姦されたのち殺されるというケースもあった。と、国連およびユニセフが報告している。

https://fr.news.yahoo.com/enfants-violés-châtrés-jetés-flammes-au-soudan-sud-131022399.html

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『靴職人と魔法のミシン』──前代未聞の群像劇(★★★★)

『靴職人と魔法のミシン』(トム・マッカーシー監督、2014年、原題『THE COBBLER』

 

 本作の展開には、いわゆる「通」の方々には、お口あんぐりかと思う。しかし、ゆっくりニューヨークの下町がどうなっているかは、堪能できたので、ワタシ的には満足である。残念なのは、隣の床屋の(この商店の並び具合、建物の古い感じは実によい。ジョン・タトゥーロの『ジゴロ・イン・ニューヨーク』を思い出すが、あれよりもっと、町内地図が俯瞰できる)、ブシェーミの役どころ(ジミーだったかな?)が、実にいいと思っていたのが、実は、主人公マックス(アダム・サンドラー)の、家庭を捨てて出ていった父親(ダスティン・ホフマン)が「化けて」いて、ジミーは、その父親が店を買い取るために与えた金で保養地でゆったりしていると、父親が説明するくだり(かなりの結末近く)である。

 ファンタジー的要素は、地下室にあった先祖代々のミシンを使って補修した靴を履くと、その人物に変身してしまうという設定だけにとどめておくべきだったと思うのだが、「魔法のピクルス」とか、いま書いた、父親の「変身」だの、いろいろファンタジー的要素を詰め込んだために、いい味の人物たちが、ただの幻になってしまっている。そして、ストーリー的にも観客に混乱を与えるようになっている。自分の店の地下に、三代のご先祖たちが作った、靴の殿堂といったコレクションの棚が拡がり、それゆえ、「しがない職人の家」ではなく、運転手付きリムジン持ちのリッチな家を築いていて、それを父親は地下に隠していた──なんていうのも、あんまりといえばあんまりだ。なぜ、『扉を叩く人』のような手堅いリアル感の映画を作り得た監督がこうなってしまったのか?

 しかしまあ、『アラビアのロレンス』のほんとうの主役が「砂」で、『トリュフォーの思春期』のほんとうの主役が「子ども」であるように、本編のほんとうの主役が「ニューヨークの下町」だと思えば、それなりに堪能できる作である。そして、ニューヨークは、そんな「なんでもアリ」の街なのも確かだ。

 それに、よく考えてみれば、主人公のマックスが他人の靴を履くたびに、その靴の持ち主に「いちいち」変身するのだが、それは、「それぞれの」役者が、「変身したマックス」を演じているのであり、演技的に興味深い。つまり、「おおぜいでひとりの役を演じている」という前代未聞の群像劇でもある。

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2015年6月19日 (金)

オンライン小説「道長通夜」

オンライン小説『道長通夜』

  あわひ けはひ ひはゐ

  あわわ わはは どはは

  きゅうちゅうに がうたう はひり

  にょぼうたちは まるはだか

  しょうがつにきるきもの ないので

  おかみからあたらしいのたまはった 

  でも あかはきんじき あかはまだだめ

  それは──

 川流れル、女郎花とお見合いと紅葉の茂みを過ぎ、つちみかどどののしきちない、読経と度胸と、一条天皇と一条さゆりと新嘗祭のムシロ内でむしろいい気になって、お供たちは居眠り今はもう秋〜♪の寛弘二年、菅官房長官まだ気配なしの左大臣藤原道長の娘にして一条天皇中宮いずれの御時の彰子少子化に抗して妊娠無事実家にて出産あいなるわたくし式部は十人の坊さんたちのお経のリレーを聞きながら船漕ぐ竜宮城なり鯛やヒラメのおつくりなど並べられ一本つけてぐい〜っといい気持ちなのら。

 つまりあれですのよ、道長ってほとんど養子みたいなもので実際この邸もわらわのものなのじゃ。と、夫人道長正室藤原紀倫子藤原紀香となんのカンケイもない数え年四十五才はヒラリー・クリントンに対抗するつもりも無理無理のまだ若いおばあちゃん。

 なんかやるせないわ、ローマ皇帝アウグストゥス、ティベリウス、ガイウス、クラウディウス、ネロ……トラヤスヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、マルクス・アウレリウス、ルキウス、コモドゥス、並べてみても「平安時代」が終わるわけでなし、とにかく三百五十年くらいこんな状態が続くなんて絶望×無限大はベン・ケーシー。ケーシー高峰死して久しく夏みかんの肌のこんなことでわ池ない(実際はあるわけだけど)と中沢新一茶色くなった田邊元全集でも開いてみる──。

 田邊「カントからヘーゲルへの哲学的発展は、いふまでもなくフィヒテとシェリングを間に挟む」

 式部「まだまだあるでしょ〜。フランクリン、ジェファソン、ハミルトン、マディソン、トクヴィル、バーク、マルサス、オウエン、サン・シモン、フーリエ……とか」

 田邊「併し自我の具體化に對する媒介としての非我は、自我の否定契機としてそれ自身の自立性をもたなければならぬことは明である」

 式部「自我? そんなもん、この時代にはおまへんのよ。といってもわたくしの日記は自我のてんこもりですけどぉ〜」

 田邊「文化は一般に傳統承受と個性撥揮との綜合として成立する」

 式部「たしか、T.S.エリオットもそんなこと言ってましたわね」

 田邊「これこれ、そこの女人。これはすべての前提ですぞ。だれそれがって、ここは誰でも、まっとうな人間なら共通認識であるぞよ。私は、これから『正法眼蔵の哲学私観』を語るんであって」

 式部「それは、この通夜をすませてからのことね」

 田邊「えつ? どなたの通夜ですか?」

 式部「ふつふつふつ──。それはレキシを見てのおたのしみ」

 「糖尿病」にてお亡くなりになったらしい殿。イヤなパワハラセクハラオトコ。私にあれを書けと命じ、しかも私の部屋に忍び込んで途中を盗み読み。ゆ・る・せ〜ん。「平安時代」にはプライバシーの「ぷ」の字もないんです。女房の居室たって、廊下に屋根がついた程度のもんです。寒いんです、冬わ。暑いんです、夏わ。しかも、このへんな装束。シャワーもなけりゃ化粧室もなく、それでも「愛の歌」なんか作らないといけないんです。で、遣り水のやうに安産祈願の僧たちの度胸ながれ秋は来ぬめり。てなてなもんやてなもんや。

(つづく)

「本店」へのご案内(「おまとめ」はこちらに↓)

http://www.mars.dti.ne.jp/~rukibo/index.html

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2015年6月15日 (月)

『ハイネケン誘拐の代償』──オランダ版『現ナマに体を張れ』? (★★★★)

『ハイネケン誘拐の代償』(ダニエル・アルフレッドソン監督、 2014年、原題『KIDNAPPING MR. HEINEKEN』

 30年以上前にオランダで起こった、あのビール会社の富豪、ハイネケンが誘拐された事件を題材にしたものだが、なぜ今頃になってこういう題材を映画化しようなどと思ったのか? はっきりいって、キャッチコピーが作りにくい(笑)。なにも売り物はない。「名優、アンソニー・ホプキンスがハイネケンに!」とはいえ、ジジイなどそれほど人の関心を引かない。「幼なじみの5人組の誘拐犯の一人に、サム・ワーシントン!」といっても、どこか地味っぽい。実際、『アバター』以外に、とりたてて話題になった作品もない。(『崖っぷちの男』はよかったが、あまり思い出せない(笑))

 しかし、この地味な作品、妙に惹かれる。まず、計画は失敗に終わる。しかし、誰も死んでいない。結局、生活に困って誘拐を思いついた幼なじみの五人組は、誰ひとりとして犯罪の素質のある人間はいなかった。人質を傷つけることはおろか、殺すこともできなかった。おまけに、ハイネケン会長とその運転手のふたりを誘拐してしまったために、その後の扱いが面倒になる。誘拐ほど割に合わない犯罪はないと言われる。おまけに、平然としてかつ要求まで出す、アンソニー・ホプキンス扮する人質のハイネケンに結構いいように操られる。

 犯罪をまっとうできない弱い心が、ひとり、またひとりと、敗北を重ねていく。事件史上最大の身代金と言われるが、それを受け取ったはいいが、その金の重さを計算に入れてなかった──。ちなみに、「イスラム国」が日本政府に要求した身代金も、米ドル紙幣で数百キロになる(ゆえに、非現実的要求だった?)。5人は意見の相違から、ばらばらになるが、オランダからパリへと逃げた、スタージェス、ワーシントン組(の主役二人)が最後まで残る。しかし、それも、スタージェスの身重の妻へのかけた電話から(実際はほかの密告にもよった)居所を知られ、パリ警察に囲まれる。そこで投降。その後、5人の様子が、字幕のみで語られる。たいていは懲役11、2年で釈放されている。そして、主役二人は、オランダマフィアの頂点に立ったとある。その後、暗殺だったか。

 オランダ人の役者は、主だった役には一人もいない。おもに、イギリス人とオーストラリア人俳優が演じている。ほんとうは、アンソニー・ホプキンスの役は、ルトガー・ハウアーがやり、監督は、スウェーデン人のダニエル・アルフレッドソンではなく、ここはやはり、生粋オランダ人の、ポール・バーホーベンでいきたかった。そうすれば、もうすこし迫力が出たかも知れない。しかし、まあ、このテの地味な犯罪映画には、小さく光っている魂のようなものがある。いまの鳴り物入り、ど派手な押しつけがましい映画にはない、映画の魂のようなものが宿っている。と、まあ、そんな気がした映画だ。

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2015年6月 6日 (土)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』──まがいものにもほどがある(★)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』 (新潮モダン・クラシックス、2015年5月29日刊)

 本書の表紙を見るかぎりどこにも、「縮約」などという言葉は使われていない。まるで、「まっとうな」『失われた時を求めて』の訳本のようである。なるほど、「編訳」には、原テキストがある程度「編集」されていることが窺われる。「あとがき」を読むと、角田光代の「大学時代のフランス語の先生」であった芳川泰久が、原テキストを適当に編集して訳し、それを角田に渡して、角田は「リライト」したようである。まあ、リライトもまた文学であるとするなら(ボルヘスのように)、本書も「作品」であるといってもいいが、それには、せめて題名は、『角田光代の「失われた時を求めて」』とするべきだ。そして、それは、角田がプルーストのテキストにインスパイアされて書いた「べつの小説」である。それが、本商品により近い内容であると思われる。

 本書の企画が来たとき、角田は「とても無理だと思った」とある。しかし、最終的には編集者らに巻き込まれ、「了解しました」と言ってしまったとある。ま、たいてい、大それたものを手がけるときは、そういうものである(笑)。また、編訳者芳川は、角田がリライトした原稿を見て感心したとある。「私」が「ぼく」になっていたからである(笑)。

 プルーストの『失われた時を求めて』は、1840年代から1915年まで、75年間を、200人以上の登場人物を鏤めて書かれた、英訳で4000ページ、約150万語の小説だが、彼ははじめ、評論を書こうとしていた。悩んだすえに、小説の形を選んだのである。ナボコフに言わせれば、「若い頃、プルーストはアンリ・ベルグソンの哲学を学んだ。時間の流れに関するプルーストの根本的考えは、個性の不断の発展を持続という観念でとらえ、われわれの意識化の心のまぎれもない豊かさを回収しうるとすれば、直観と記憶と無意識的な連想によるしかないとするところにある」

 「プルーストはプリズムみたいだ。彼、ないしそれの唯一の目的は屈折させること、そして屈折させることによって、回想のうちに一つの世界を再創造することである」

「フランスの批評家アルノー・ダンディユーがいったように、過去の喚起であって、過去の描写ではない。ダンディユーはつづけていっている、この過去の喚起を可能にするのは、絶妙に選びとった数々の瞬間を照らし出し、それを一連の例証、イメージと化すことによってだと。まさに、厖大な小説全巻は、あたかも──のようにという言葉を軸に回転する一つの拡大された比喩にほかならない、これがダンディユーの結論である」(ウラジミール・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1992年刊)

 プルーストが作品として構想し読者に期待したものは、この原稿の実質的な「長さ」を、まさに、話者ととも共有して、「時間のプリズム」を眺めること。「ストーリー」ではない。ゆえに、本書のような、お手軽ダイジェストを読み通しても、プルーストを読んだことにはならないし、なんの意味もない。むしろ、原書か、あるいは、せめて、今日本語で読める最良の訳書、井上究一郎訳(筑摩書房)を、たとえ中断してもいいから、読むことである。ほかに、集英社版、岩波文庫版があるが、井上訳がいちばん、プルーストの文体に沿っているように思われる。

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2015年6月 1日 (月)

『真夜中のゆりかご』──「本格」ベースの父性愛の物語(★★★★★)

『真夜中のゆりかご』(スサンネ・ビア監督、2014年、原題『EN CHANCE TIL/A SECOND CHANCE』

 ヤク中+DVカップルのアパートに刑事が踏む込みと、トイレ(といってもあちらは洗面所でもある)に排便まみれの赤ん坊が──。一方、刑事にも同じ年頃の赤ん坊がいる。ある種の虐待として赤ん坊は保護されるが、母親にクスリ歴がないことで不問にされる。

 刑事の家の赤ん坊が死ぬ。乳児の突然死であることを観客はなんとなく想像する。その前に、刑事の妻は、導入部から、ちょっとしたことで激昂することが示される。イヤな女だなとはじめから思う。赤ん坊は何度も夜泣きし、そのたび、夫婦のどちらかが散歩に連れ出す。赤ん坊が死んでいることを知った夜、刑事は警察に連絡しようとするが、妻は拒み、通報したら自殺するとまた激昂する。問題はこのあたりである。この妻の激昂の度合いによって、刑事の心理が決まってくる。また、この激昂は、赤ん坊の死因の発見を遅らせるためだったかもしれない。刑事は、悩み果て、死んだ赤ん坊を車に乗せて真夜中の街へ出るが、最初から、あのヤク中カップルの子どもと取り替えるつもりではなかった。相談しようとした相棒が、酒に酔って電話に出なかったというのもある。ちょっとした偶然が重なり、思わぬ方へ刑事を導く──。

 DVカップルのアパートへ行くと、ふたりは熟睡して(鍵はかけてなかったのか?)いて、トイレには便まみれの赤ん坊がいた。それを、死んだわが子と取り替える。どうせわが子は死んでいる。この子だけでもまともに生かせてやりたい。子どもはみな同じだ。という博愛の考えがないとも言えない。一方、いくら死んだとはいえ、わが子をわざと便をつけて置いていく、という考えはひどすぎるというのもある。ここは辛いところだが、論理的に考えれば、生きている方を取った方がよいし、便をまみれさせるのは、慚愧に堪えないながら、その家の子に見せかけるためだ。究極の状況に追い込まれた場合、このような判断もあり得る。

 風采のあがらない初老とも見える同僚が、堕ちていく若い刑事の不安定な真理に接して、逆に立ち直って、彼をまっとうな方向へ導いていく。そして、刑事の赤ん坊(DV夫に土中に遺棄されていた)は、「やはり」(?)妻が殺していたことが検死でわかる。泣き止まないので、大きく揺すったのだろう。さもありなんの当初から激昂ぶりだった。一方、DV妻は、最初から、取り替えられた死体の赤ん坊は自分の子ではないと主張していた。同僚に諭され、刑事は、生きている赤ん坊を連れて、その女(精神病院に強制入院させられていた)に謝罪にいく。

 数年後、刑事は職を失いホームセンターで働いている。そこへ見たことのある女性客が通り過ぎていく。「オジサン、迷子なの?」子どもが呼びかける。元刑事はその子の名前を問う。その子は、かつて、自分が盗んだ赤ん坊の名前を言う。

 原題(といってもデンマーク語は読めないから英語題名だが)「second chance」。「再生」とでも訳せばよいか。だから、これは、父性愛という稀有なテーマの物語であったのだ。

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