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2015年6月 6日 (土)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』──まがいものにもほどがある(★)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』 (新潮モダン・クラシックス、2015年5月29日刊)

 本書の表紙を見るかぎりどこにも、「縮約」などという言葉は使われていない。まるで、「まっとうな」『失われた時を求めて』の訳本のようである。なるほど、「編訳」には、原テキストがある程度「編集」されていることが窺われる。「あとがき」を読むと、角田光代の「大学時代のフランス語の先生」であった芳川泰久が、原テキストを適当に編集して訳し、それを角田に渡して、角田は「リライト」したようである。まあ、リライトもまた文学であるとするなら(ボルヘスのように)、本書も「作品」であるといってもいいが、それには、せめて題名は、『角田光代の「失われた時を求めて」』とするべきだ。そして、それは、角田がプルーストのテキストにインスパイアされて書いた「べつの小説」である。それが、本商品により近い内容であると思われる。

 本書の企画が来たとき、角田は「とても無理だと思った」とある。しかし、最終的には編集者らに巻き込まれ、「了解しました」と言ってしまったとある。ま、たいてい、大それたものを手がけるときは、そういうものである(笑)。また、編訳者芳川は、角田がリライトした原稿を見て感心したとある。「私」が「ぼく」になっていたからである(笑)。

 プルーストの『失われた時を求めて』は、1840年代から1915年まで、75年間を、200人以上の登場人物を鏤めて書かれた、英訳で4000ページ、約150万語の小説だが、彼ははじめ、評論を書こうとしていた。悩んだすえに、小説の形を選んだのである。ナボコフに言わせれば、「若い頃、プルーストはアンリ・ベルグソンの哲学を学んだ。時間の流れに関するプルーストの根本的考えは、個性の不断の発展を持続という観念でとらえ、われわれの意識化の心のまぎれもない豊かさを回収しうるとすれば、直観と記憶と無意識的な連想によるしかないとするところにある」

 「プルーストはプリズムみたいだ。彼、ないしそれの唯一の目的は屈折させること、そして屈折させることによって、回想のうちに一つの世界を再創造することである」

「フランスの批評家アルノー・ダンディユーがいったように、過去の喚起であって、過去の描写ではない。ダンディユーはつづけていっている、この過去の喚起を可能にするのは、絶妙に選びとった数々の瞬間を照らし出し、それを一連の例証、イメージと化すことによってだと。まさに、厖大な小説全巻は、あたかも──のようにという言葉を軸に回転する一つの拡大された比喩にほかならない、これがダンディユーの結論である」(ウラジミール・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1992年刊)

 プルーストが作品として構想し読者に期待したものは、この原稿の実質的な「長さ」を、まさに、話者ととも共有して、「時間のプリズム」を眺めること。「ストーリー」ではない。ゆえに、本書のような、お手軽ダイジェストを読み通しても、プルーストを読んだことにはならないし、なんの意味もない。むしろ、原書か、あるいは、せめて、今日本語で読める最良の訳書、井上究一郎訳(筑摩書房)を、たとえ中断してもいいから、読むことである。ほかに、集英社版、岩波文庫版があるが、井上訳がいちばん、プルーストの文体に沿っているように思われる。

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