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2015年7月

2015年7月30日 (木)

『新潮 2015年 08 月号』 ──「祝 原田宗典復活!」(★★★★)

『新潮 2015年 08 月号』(新潮社、2015年7月刊)

 今どき文芸誌を金出して買うなどというのは、よほど奇特な人だと思う。なのに、今号、本誌を買ってしまったのは、ひとえに、「あの」原田宗典(250枚一挙掲載)があったからである。「あの」というのは、やはり「クスリで捕まった」という事件の、である。「文学界の田代まさし」まではまだいってないとしても、「あの」田代まさしが、NHKの大河ドラマ準主役で「復活!」ぐらいの衝撃は、一部にはあったと思う。少なくとも私にはあった。確かに本作を読めば、「すごい情報」が書かれていました。川端康成が「ヤクを買っていた」とか、「自衛隊ではしばしば訓練中の事故死があり、テキトーに片付けられている」とか、きわめつけは、「日本人傭兵のハナシ」とか。あ、「逮捕前後」、「塀の中」の様子もね。これは、体験した人でないとなかなかかけない。ここでついでに、「新資料」を付け加えるなら、当方も、文芸誌に小説を何度か発表したことがあり、担当者からしばしば原田氏のことは聞いてました。この担当者は、自殺した作家の佐藤泰志も担当していて、担当中に亡くなったので、まー、佐藤泰志は死に、原田宗典は生き残ったのかな、という思いです。ほかに、ぴんぴんして活躍しているらしい奥泉光なんて作家もおりましたが。作家って、やはり大変なものだと思いますね〜。

 あ、この作品は、はっきり言って、作品になってない。書かれている事実はすごいけど。それだけ。なんか、プルースト風な構造を狙ったのかなとも思える終わり方ですが、いかんせん、「たったの」250枚ですから。しっかし、これを書いて、そのあと、なにを書くんですかね? このバリエーションといったところでしょうか? でも、一方で、ハリウッドで映画化したらおもしろいとも思いました。主演の「原田宗典」役は、ジョン・キューザックで。もう彼しかいないと思いましたが、思ったところでしょうがないけど(笑)。

 ほかの演し物。古井由吉→もうこのジジイのわざとらしい文章は読みたくもない。

 対談「古典=現代を揺らす」(町田康×古川日出男)→お里が知れる。果たして、どんな底本を、ほんとうに古文から訳しているのか? 案外、角田光代のプルーストみたいなしかけではないのか? テキスト・クリティークの視点皆無の無教養さ。

 ……てなてなわけで、今回、原田さんのために、930円払いました。

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2015年7月27日 (月)

『人生スイッチ』──人生いろいろ〜♪(★★★★★)

『人生スイッチ』(ダミアン・ジフロン監督、2014年、原題『RELATOS SALVAJES/WILD TALES)

 原題は、スペイン語も英語も、「ワイルドなオハナシ」。まったくそのとおり。それぞれにちゃんと伏線があり、カメラワークも非凡である。しかも毒もたっぷり。アルゼンチンは掌編の幻想作家ボルヘスを生んだお国柄のせいか、掌編がうまい。本作の場合、いくら核心をつきたいレビューでもネタバレはしないほうがいいだろう。で、以下六編の「ジグソーパズル評」で。

1,飛行機のお客たちすべてに、ある共通点が──。と、ある。こんな共通点聞いたことがない(笑)。ハナシがかなり「カンケイないところ」から始まる。ミスディレクション? しかし、そんなことしているほど猶予はない。なにせ掌編である。最後のオチは、今日(7/27)の新聞のニュースとそっくりで……(合掌)。

2,前方をうろうろする、オンボロ車がウザい。抜き去りつつ、「田舎物〜」と中指立ててて、(確か)アウディのかっちょいい男は行く……。だが……。思いもよらない「終わり」に。悲惨だが、思い出し笑い(合掌)。

3,雨のカフェのウェイトレス。入ってきたのは、親を自殺に追いやったオヤジ。調理場のバーサンに事情を話すと、「そんなワル、やっちまえ!」とばかりに、「消費期限」(?)のキレた猫いらずの缶を。ウェイトレスは、犯罪など犯すつもりもないし、現に犯さなかったが──。殺人勧めたバーサンの目つきとセリフを思い出して、また笑いが……(合掌)。

4,このハナシがいちばんすき。優秀な「爆発物取扱技術者」だと思う。どこへ車を止めても、レッカー移動され、対応のお役所にいらいら。家に帰っても、妻と娘が冷たいし……。でも、最後は「ヒ〜ロ〜♪」(爆)

5,大金持ちのどら息子が妊婦をひき逃げしてしまった。両親はさーどうする? なかで、わりあい「ありがちな」オハナシだった(合掌)。

6,豪華な結婚式。だけど、新郎が昔カンケイした女が、すべてお見通し顔で座っているのを知った新婦はプッツン。そのプッツンの程度が半端ではなかったので……題名通りの「ハッピー・ウェディング♪」(おめでとー)。

 見るもよし。パスするもよし。どっちにしろ、あなたの人生は変わらない(合掌)。

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2015年7月20日 (月)

『神々のたそがれ』──あらゆる快楽を拒絶する映画(★★★★★)

『神々のたそがれ』(アレクセイ・ゲルマン監督、2013年、原題『TRUDNO BYT BOGOM/HARD TO BE A GOD』)

 このレビューを書く前に、ほかの方々が書かれたものを、いつもよりたくさん、5〜6個読ませていただきましたが、星の数は1つから5つまでいろいろありますが、今回にかぎり、どのレビューも「正しい」(笑)。つまり、正しいことを必然的に言ってしまう映画ということになる。口当たりのいい作品、わかりやすい構図のなかにきっちり収まってしまう映画がほとんどの昨今、本作のような作品は、貴重というか、やはり哲学になりえているのではないかと思う。というのも、見た直後は、確かに、嫌悪感が支配する。しかし、それはやがて、なぜ? ……という思考へと変わっていく。つまり、見た人に考えるということをさせる映画である。

 作品じたいは、一応SFである、どこか地球以外の星のできごとである、地球人がそこへ上陸し、調査といいながら、その星の人々を支配している──といった予備知識だけが、この映画の、「枠」となっていて、それを知らないならば、ここでいったい何が起きているのかは理解不可能。

 どこか、シェークスピアの時代、劇を思わせるような風俗が各所に残る。「暴君」のような男を中心に、人がやたらと処刑されたり、暴力をふるわれたり。街路はぬかるみ、やたらと登場する糞尿が泥と入り混じる。処刑された人間や動物が、「上」から垂れ下がっている。ボッシュの絵のような風景。鎧、魚の鱗を思わせる手甲、降りしきる雨、「秋がきた」と主人公の男は何度も言うが、秋を思わせるものは、よくわからない。主人公の「神=地球から来た調査隊の学者らしい」が吹く、クラリネット様の楽器の音色が唯一「秋」のようでもある。その音色は、作品の終わりの、雪の降りしきる「冬」でも、ひきつづき鳴りひびくが──。

 ミシェル・フーコーは、「やがて人間という概念も終わるだろう」と『言葉と物』のなかで書いているが、その「終わった」姿なのかもしれない。概念(言葉)は終わっても、肉体(物)は、在り続ける事態とは、いかなることか。

 本作の汚さに比べたら、これまで見てきたあらゆるエログロの映画は美しく見える(笑)。これでもかの3時間に、あなた耐えられるか?

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2015年7月17日 (金)

外国に攻撃される可能性

 安保法案賛成者という人々が、当然ながら、国民のなかにもいます。その人たちの言い分は、NY TIMESのアンケートのなかにもありましたが、「もしよその国が攻めてきたらどうするんだ?」というものです。攻めてくる外国として想定されるのは、近隣でいえば、テポドンを抱える北朝鮮、韓国、中国などでしょうか? テポドンの威力がどれほどか知りませんが、韓国、中国に関しては、まず現実的でないでしょう。なぜなら、韓国中国人の観光客が、何百万人と日本に来ているからです。遠い国からの観光客も含めれば大変な数です。こういう、けっこう外国人でにぎわっている国をどうやって攻めるのか? そして、その「確率」(現実的なデータがいる)はどれほどか? ということです。

「賛成者」のなかには、「自分の妻が目の前で蹂躙されて戦わないやつがいるか」などと、勝手な妄想を膨らめて(笑)、安倍政権の論理を受け入れてしまっている人もいます。

 確かに、もしもの場合の備えは大事でしょう。しかし、いつ強盗に襲われるかもしれないと、家庭に銃などの武器をおいておく状態と似ていませんかね? 確かに強盗が突然襲ってきた不幸な事件はあります。それは、まあ、確率の問題だし、突然の事件を切り出したらキリがないのです。外国が襲ってきたら──、それは、家に強盗が入るのと、確率的にどういう違いがあるのでしょうか?

 ちなみに、アメリカの法律では、一般の日本人が外国で襲われても、軍艦には乗ることができないようです。

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2015年7月16日 (木)

『雪の轍 』──「トロイア」より愛を込めて(★★★★★)

『雪の轍』(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督、2014年、原題『KIS UYKUSU/WINTER SLEEP)

 映画でしか見られないものがある。本作の「風景」などまったくそれである。カッパドキアに旅行した人はべつとして、こんな風景がまだ地球に存在しているのかと驚く。それだけでも、この映画は見る価値がある。まるで、テオ・アンゲロプロスの映画のように、古代の都市であった、今はさびれた(観光地以外は)場所で、激しい人間の情念ともの言わぬ自然が融合する。かつて、トロイアと呼ばれた場所。洞窟を穿って住処としている。甲羅のような丸くて大きな洞窟は、SFチックでもある。窓やドアはクラシックなものが取りつけられている。ほんのり見える赤みを帯びた明かりが、そこで人が生活をしていることをうかがわせる。

 物語の主な舞台となるホテル『オセロ』も、そんな洞窟にドアや窓がついている「建物」だ。自然がすぐそこまで迫り、野生の馬やウサギも棲息する。ここにも古代からずっと続いているものもありそうだ。そんな非現実的とも見える、時代から取り残されてしまっているかのような場所にも、インターネットがあり、携帯電話も使えるのに驚く。

 確かにキャッチコピー(「チェーホフ+ドストエフスキー+ショパン)そのままに、チェーホフのような、人間(夫婦、兄妹)の言葉による愛憎劇、ドストエフスキーのような、極貧の家族、ノスタルジックなショパンの音楽が、うまくマッチして、ドラマを運んでいく。なにかが暴露され、対立も露わになるが、実際には、「なにも起こらない」。この場所の時間は、こうして流れてきたのだろう。何千年も。あのトロイアが陥落した日から──。

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2015年7月15日 (水)

Droit naturel

Les droits naturels

 わんこ散歩のおりにiPod で聴いてるのは、べつに「三波春夫」ばかりではない。ときに、"Declaration des droits de l'homme et du citoyen du 26 aout 1789" 「フランス人権宣言」である。このなかに、耳に残る言葉がある。それは、les droits naturelsという言葉であるが、この「前文」の文脈からすれば、個人が生まれながらに持っている権利ということになるのではないか? 

それを、今度の「集団的自衛権」問題で、安倍首相が早くから(第1次安倍内閣の頃から)口にしていることがわかった。

以下の憲法学者、水島朝穂氏のページで、である。以下、引用させていただくと、

「集団的自衛権というのは個別的自衛権と同じようにドロワナチュレル、つまり自然権なんですね。自然権というのは、むしろこれはもともとある権利でありますから、まさに憲法をつくる前からある権利というふうに私は考えるべきなのではないか、こういうふうに思います。」(衆院憲法調査会2000年5月11日 安倍(晋)委員)

引用もとにも、Droit naturelに関する考察あり↓

http://www.asaho.com/jpn/index.html

水島氏も、安倍首相の解釈の、あまりの素朴さ、「我田引水さ」に呆れているが、安倍首相が、この言葉の元であると推定される、「国連憲章」(第51条)を読んでいたとも思えないから、まあ、ブレーンの誰それの「案」なのかもしれないが──(笑)。

人権宣言の「droit naturel」は、複数であるが、『フランス法律用語事典』(三省堂)で引くと、

Droit naturel 〔一般〕自然法 きわめて多様な意味をもちうる表現。

①社会的現実に関する理性的かつ具体的な分析による正義の追求。人間および宇宙の合目的性を考察することによって導かれるもの。

②理性によって発見される不変の原則であり、この原則により、客観的法によって認められる実定の行為規範の価値をはかり知ることができる。

……なんのことやら、全然わからないが、きわめて「曖昧な」言葉であることはわかる。

そしてもうひとつ、『国際法』(有斐閣アルマ)によれば、「自衛権」に関しては、1986年の「国際司法裁判所、ニカラグア事件」から注目され、裁判所は、

「NATOや日米安全保障条約は集団的自衛権の行使を約束する条約であるが、このような条約がなくても、武力攻撃後に攻撃を受けた国家のアド・ホックな要請に基づいて友好・同盟国が集団的自衛権を行使することも可能である」と指摘している。2006年刊の本書にある「日本政府の立場」は、

「(集団的自衛権については、憲法上の要請から)わが国が、国政法上、集団的自衛権を有することは主権国家である以上当然であるが、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することはその範囲を超えるものであって憲法上許されないと考えている」(1981年5月29日 政府答弁書)とある。

なぜ、私がこのような本を持っていたかというと、15年以上前だったか、ポワチエ大学の教授による、「国際政治に使われるフランス語」という「サンプル講座」が、福岡の日仏学館であった。一日8時間、約一週間の講座が、「無料」であった。参加するには「許可」がいったが、当時小倉で習っていたフランス語の先生のおかげで、潜り込んだのだった(笑)。ま〜、こんなときに、役立つとは思わなかったわあ〜(といっても、その講義はかなり高度で、ちんぷんかんぷんに近かったが、国際法には関心を持って、本だけはいろいろ買っていたのであった)

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2015年7月14日 (火)

『病む女はなぜ村上春樹を読むか』──「近過去文壇史」としては読ませるが……(★★★)

『病む女はなぜ村上春樹を読むか』(小谷野敦著、2014年5月刊、KKベストセラーズ刊、「ベスト新書」)

 確かに題名の、「病む女はなぜ村上春樹を読むか」には、直接答えていない。本全体から考えろということか。本書は、導入部はなかなかおもしろい。しかし、ページを追うに従って、著者特有の、「私小説論」になってしまって、村上春樹に対して、「もう、あんたのネタはバレバレなんだから、かっこつけてないで、そろそろ、本格的な私小説(著者、小谷野氏にとっての真の文学(笑))を書いたらどうなんだ?」と提案している本である。私は、小谷野氏とはまったく違う私小説観、文学観を持っているので、氏に賛成はできないのだが、本書で、氏の「主張」はよく理解できた。

 しかし、である。村上春樹がたとえ、「過去に病んだ、フェラチオ好きの女とつきった」経験があり、それにずっと引きずられているとしても、まあ、私小説など書かないだろう。なぜなら、稼げなくなるからだ(笑)。現に小谷野氏も、私小説(小谷野氏にとっての純文学)は売れないと言っているではないか(笑)。では、稼ぎを捨てて、「名声」(ノーベル賞)を取るべく、私小説にチェンジするか? これも、過去に私小説(一般的な意味での)が取った試しなどないのである。小谷野氏は認めてないようであるが、私は小林秀雄派なので、私小説を書くなら、小林の「『告白』を書いたルソー並の覚悟をしてから書きべきである」という意見に与している。

 それはともかく、この薄い新書にして、「フェラチオ」なる言葉が頻繁にでてくるようである(笑)。小谷野氏の村上春樹論のキーワードである。確かに、春樹の小説にはフェラチオ好きの「美女」が登場し、積極的にやってくれる。小谷野氏は、春樹は、それほどフェラチオ好きなのか、と訝っていて、(できることなら)自分もあやかりたいと思っている、フシがないでもない(笑)。

 私は、村上春樹は嫌いだし、「多崎つくる」はAmazonレビューも書いたが、小谷野氏の感想とだいたい同じである。フェラに及んでは、またかよ、である。性行為において、フェラが問題になるのは、玄人の女性の世界である。素人の女性はそういう行為はあまりカンケイない。しかし、アメリカ映画を見るがぎり、アメリカ人は、どんな知識人も、性生活で、フェラを問題にしていることがよくわかる。たとえば、ついこないだ観た、若年性アルツハイマーがテーマの『アリスのままで』でも、大学教授同士の夫婦でも、新婚旅行かなんかの思い出を語り合うシーンで、「ほら、きみがフェラしてくれたね〜」などと言っているのである。それを見て、私は呆れた。アメリカの映画には、仲睦まじいカップルの場面の会話にはよく出てくる。村上春樹は嫌いだが、弁護すると、春樹は、アメリカのハードボイルド小説(主人公がやたらとモテ、美女のサービスも満点。イギリス本格と違って、謎解きは「お飾り程度」(笑)))の影響を強く受け、その展開を土台に、日本の風土で描いているので、唐突にフェラが出てきて不自然なのだ(笑)。もちろん、春樹自身も、経験あるのかもしれないし、あこがれてもいるのだろう。

 ついでに、大江健三郎も、かつて、女性週刊誌に小説を載せたことがあり(どういう内容かは知らない)、それは、自身の著作リストから完全に抹殺しているそうである。という「新資料」も、おまけとして載せておきます(笑)。

 さらなる「おまけ」:『このミステリーがひどい』(私もかねがねそう思っているので)も予約してあります。楽しみです。読んだら、また(書けたら)レビューを書きます。

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