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2015年9月

2015年9月25日 (金)

『職業としての小説家 』──真に自立している作家(★★★★★)

『職業としての小説家』(村上春樹著、2015年9月、スィッチパブリッシング刊)

 私は村上春樹の作品というのは、読めば突っ込みを入れたくなる。それは、たぶん、求めているものとは違うからだ。イギリスの本格小説愛好家がアメリカのハードボイルドを読めば、その「薄っぺらさ」に違和を感じる。たまたま、ロス・マクドナルドの小説を開いた時、村上春樹の小説はコレだと思った。それを、日本に移しているから、なにかとってつけたような、嫌らしい感じ、金井美恵子センセイからは、「幼稚なポルノ」みたいなことを言われる。しかも、村上作品には、かなり多くの性描写、美女が簡単にフェラチオしてくれるとか、そういうのが多いので、小谷野敦のような「作家」からは、「やっかまれる」もととなる(笑)。批判者は、「オナニー」とも言う。しかし、オナニーではないと思う。現に、第一の読者は、村上春樹夫人であるからだ。まあ、アメリカ映画を観ていればわかるけれど、アメリカの進歩的な人って、性的には、こんなんですね。クリントン元大統領も、ハマってしまったし(笑)。もともとアメリカにはピューリタニズムがあって、それへの反抗からこんなふうになったのではないかと思う。

 そんな私ですが、本書を読んで感心しました。完全にプロが良心的に、「手の内を明かして」ますね。これは、イチローが自己を語るのと似ています。35年間、小説を書くことだけで、大学教授にもならず、文学賞の選考委員にもならず(だいたい、日本の「有名作家」はこれらで食っているといっても言い過ぎではない)、生活してきたのですから。

 芥川賞ってのは、文藝春秋の「権威授与祭り」ですね。そういうのをもらって、涙ながらに「これでまともな作家だ!」と喜ぶのも自由ですが。『公募ガイド』に、元「小説新潮」の編集長氏が出て言ってました。「作家の寿命は10年」だと。それは、春樹氏も書いています。そういう日本の出版界で、35年、一流作家であり続けるのは、大したもので、そういう人のノウハウは、そりゃ、学んだ方がいいです。まあ、日本で真に、筆だけで自立している作家は、村上春樹と大江健三郎だけでしょう。

 ただ、長編小説が、35年で、13作程度というのは、決して多い数字ではない。世界的に見たら。ジョン・クリーシーという作家は、30年で440冊以上出し、文章もすぐれていたと、植草甚一が『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』で紹介しています。

 好みはいろいろだろうけれど、まず、「世界レベル」に達した作家と言っておきましょう。ちょっと推敲のしすぎで、そのわりには「結果」がよくわからないムキはありますが(笑)。

 あ、おまけですが、本書の題名、マックス・ウェーバーの、『職業としての政治』『職業としての学問』(ともに岩波文庫)にあやかったものと思われますが、「政治」「学問」が、分野の名前なのに、「小説家」というのは、すでに「職業名の一種」で、そのへんの違いはどうなのかな? とちょっと突っ込んでおきます。前者は、「政治は暴力」であるを基本認識とし、後者は、「学問を職業にするとは、大学での不本意な専門的細分化をも受け入れ」ていかねばならないとしていて、本書ととも、読むに値する本です。かなり薄いですし。この三冊、どこか「共鳴」しているような気もしますと、最大級のホメことばを書いておきます(笑)。

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2015年9月 3日 (木)

『わたしに会うまでの1600キロ 』──細部がテキトー(★★★)

『わたしに会うまでの1600キロ』(ジャン=マルク・ヴァレ監督、2014年、原題『WILD』)

 

 原題は『(The なしの)WILD』。ショーン・ペンが監督した、『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007年)を思い出す。あれも、大自然の中へ「入っていく」映画だった。そこへ行けば、なにか解決できるかのように。人は自然の偉大さ、厳しさに接し、なにかカタルシスのようなものを感じるのだろうか? イヤな自分や過去が「浄化」され、新たな自分に生まれ変わる──と、信じられるのだろうか?

 そんな動機付けなど関係なしに、自然に触れることはおもしろい。ほんとうはそれでいいのではないか? 長いトレイルを制覇した達成感は、興味本位で参加したとしても得られるだろう。

 野生に接した人間を描くのなら、とことん具体的に描いたものが見たい。だが本作は、どこかお手軽感に溢れているし、靴にしろ、荷物にしろリアリティに欠ける。そういうところは、大きな物語を語るためにテキトーにされている。つまり、人間ドラマなのか、自然なのか。べつの映画のネタバレにもなってしまうが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公は、結局野垂れ死ぬ。確か、最後は白骨化した死体が発見される。野生のなかに入っていった人間は負ける。

 本作では、いくら「トレイル」として指定されているコースとはいえ、野生のなかでサバイバルしたヒロインは、「ほんとうの自分を見出す」=野生に勝つ。果たして、野生とは、そんな簡単なものか? もちろん映画のなかで、ヒロインは大変な試練に遭っていたとは思うが。

 リーサ・ウィザースプーン(当時38歳くらいだが(笑))の肉体の感じも、彼女の母親役のローラ・ダーン(当時47歳くらいで、娘役のリーサと10歳も違わないのだが)のきめ細かい演技も、賞賛に値するものだとは思うが、映画作品全体としては、なにが言いたいのかわからないものになっている。それになりより、主人公の得た「さとり」(?)のようなものが、言葉で説明されてしまって、映画的にはよく見えなかったことが残念である。

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余談:Yahoo!レビューのなかに、「年取ったリース・ウィザースプーンは、ウィレム・デフォーに似てきた」と書かれていたものがあり、思わず吹いた。

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