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2015年10月20日 (火)

『ぼくらの家路』──ドイツの子供(★★★★★)

『ぼくらの家路』(エドワード・ベルガー監督、2013年、原題『JACK』)

 若い女は遊びたい。しかし子供を持ってしまった。安易に考えたのかもしれない。子供はどんどん成長する。子供は、なによりも独立した人格である。幼いうちは母親の意のままにされるが、ある年齢を境に、自我が確立され、子供なりにどう生きるかの選択を迫られることになる。

 育児放棄の母親は今や世界中どこにでもいる。子供は本能的に母の愛を求める。どんな身勝手な母親でも、「ママが世界一すきだよ」と言い、心底そう思っている。ここがせつない。10歳にして6歳の弟の世話をして、まるで「母親」のように忙しく、朝の室内を走り回り、弟の着替えから朝ご飯の準備などをするところから始まる。いつからか、そう「しつけられた」ジャック。弟をお風呂で火傷させてしまったため、養護施設に預けられることになる。待ちに待った夏休み、母は迎えが「2日遅れる」と電話してくる。この2日がジャックは待てず、施設を抜け出し家(アパート)に帰るが鍵がかかっていて入れない。弟が預けられている母の友人の家に弟を迎えにいく。そこから、3日間、母と連絡が取れずに、つまりは、母は携帯に出ず、幼い兄弟のベルリンの街の彷徨が始まる──。

 美しく近代的なベルリンの街。大人たちの無関心。兄弟は、サンダル(やクロックス?まがい)や裸足でなく、ちゃんとヒモで結ぶ靴を履いている。ジャックは弟に靴紐の結び方を教える。なんでもないことのようだが、大切なことである。これで、長い距離をどこへでも歩ける。

 筆記具も重要な役割を果たす。彼らが住むアパートも、日本のように、「汚い狭い、惨め」な感じはない。ドアの前に靴箱があり、その棚にメモ帳と筆記具が置かれている。ジャックはここに、何回か、母への手紙を書き置く。かしゃかしゃと、ボールペンを走らす音、彼の筆跡。走り書きだが、大人びたジャックの筆跡。「ママ、どこにいるの?」「ぼくたち家まで来てるよ」「話したいことがあるんだ」「世界一すきなママへ」。これがフランスの物語なら、誰か、やさしい大人が世話してくれるかもしれない。アメリカ映画なら「奇跡」が起きるかもしれない。日本なら、是枝監督が『誰も知らない』ですでに描いた通り、悲惨な犯罪的状況へと堕ち込んでいくかもしれない。発展途上国なら、そのままストリート・チルドレンへ移行だろうか。

 しかし、ここはドイツである。子供たちはりっぱなドイツ語を話し(って、あたりまえか(笑))、インフラができあがっている。3日目、途方に暮れて家の窓を見ると、明かりがついている。「ママだ!」走っていってドアを叩くと、母親は何食わぬ笑顔で彼らを迎え、まるで何ごともなかったかのように、やさしくしてくれる──。

 翌朝、ジャックは、弟と眠っている母親を見て決意する。「施設へ戻ろう!」確かにそこでは、「母の愛」のようなものは望めない。しかし、ちゃんとした規則と、それなりに気遣ってくれる大人がいる。複数人がいっしょの部屋のベッドも寝具も、まるで中流家庭の子供部屋のように、かわいく清潔そうであった。いっしょに食べる食事も、サラダやパスタなど、子供たちも協力して作る。この施設の食事が、映画中、いちばんまっとうだったのは皮肉である。

 哀しくはある、しかしジャックはこうして、りっぱな人間になっていくような気がする。ジャック役のイヴォ・ピッツカーがすばらしい。早い自立を余儀なくされる少年を、ドキュメンタリーかと見まごうほどの自然さで演じている。

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