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2016年1月

2016年1月30日 (土)

『アンジェリカの微笑み』──映画とは何か教えオリヴェイラ逝く(★★★★★)

『アンジェリカの微笑み』( マノエル・ド・オリヴェイラ監督、2010年、原題『O ESTRANHO CASO DE ANGELICA/THE STRANGE CASE OF ANGELICA』)

「オリヴェイラは世界最大の映画作家である」と、蓮實重彦は、『映画狂人、神出鬼没』(河出書房新社、2000年)のなかで書いている。「映画とは何かと問う以前に、この人が撮るものなら無条件に映画だと確信するしかない『映画作家』がマノエル・デ・オリヴェイラなのである」と。

 本作は、2010年、オリヴェイラ、101歳の時の作ということで、とかく、「老齢」という眼鏡で作品を見がちだが、この映画作家は、キャリアの中心となる作品を70歳過ぎてから集中的に撮り、80歳を過ぎても、1年に1作というペースを守り抜いたという事実を知るなら、老齢だからというのはエージバイヤス以外のなにものでもないだろう。

 冒頭からして非凡である。雨の道に車が停まるが、すぐに、死んだ若い女を撮る写真家が登場するわけではない。本職である写真家の写真館の扉を叩くも、人はなかなか出てこない。通りで待っていると、二階に明かりが点き、誰かが姿を現す。しかしその人物は、両開きの窓を開けたものの、すぐに雨だと知り、傘を持ってきて差す。そして、ベランダから、「こんな夜中になんの用ですか?」と言う。年配の女性であった。車を運転してきた者は、「××館の奥さまが娘さんの写真を撮ってほしいと言ってるんです」という。ベランダの女性は、「主人はポルトへ行っていて留守なんです」と答える。「それでは帰られるまで待ちます」「帰るのは明後日なのよ」

 土砂降りの中で、途方に暮れる来訪者。「誰かほかに写真家を知りませんか?」心当たりがないと女性は言う。そこへ、男が通りかかり、プロでないが、趣味で写真を撮っている男を知っていると告げる。二人は車に乗り込み、ベランダの女性は室内へ引っ込み、窓の明かりが消される──。冒頭だけで、これだけのドラマがある。こんな雨の真夜中に、通りがかり、「趣味で写真を撮っている男」=この映画の主人公、死んだ女、しかも既婚者、に恋をしてしまう若い男へと、導いていく人物は誰だったのか──?

 のっけから死臭漂う物語である。死んだ高貴な家の美女(死因も、周辺の事情も語られない)の、死体の写真を撮るなどという行為も、考えてみれば忌まわしい。人は死ねば筋肉はすべて弛緩し、いくら美女とはいえ、美しいままではいられないはずである。しかし、アンジェリカは、いくら半身が起こされたような状態で横たわっているとはいえ、まるで生きているかのように(すでに)微笑んでいる。青年の、イザクという名前を聞いただけで、その館の一堂は、「ユダヤ人!」と、ちょっと引き気味になる。青年が宗教にはこだわっていないと言うと一堂は安心する。

 宗教的な映画である。しかし、それは純粋カトリックでもない。いわば、人が死へ向かう時、精神が必要とする宗教。たまたまポルトガルなのでカトリックだが、もしかしたらイスラム教、仏教でも構わない。

 確かに青年は、アンジェリカの写真を撮り、まるで生きているかのような彼女に恋をするが、同時に、葡萄畑を耕す労働者の写真も撮っていて、それは集団というより、労働者ひとりひとりの鍬を下ろす瞬間の顔写真だったりする。その労働者の写真の間に、アンジェリカの写真を入れて、天上下に吊ったひもに洗濯バサミのようなピンで留めて並べて乾かしている。その写真は、常に、観客からは裏側になっていて白い紙が見えるだけである。その向こうは、丘と川が見下ろせる窓である。

 青年はアンジェリカの夢を見、いっしょに抱き合って空を飛び、(おそらく)アンジェリカの葬られた墓地の鉄扉をつかんで、「アンジェリカ!」と何度も叫ぶ。青年の下宿先の、食堂に置いてあった鳥かごのなかの、下宿の女主人がかわいがっていた小鳥が死ぬ。そして、後追うように、青年も息絶える。ショパンのピアノ曲が、この意味のない物語を際立たせる。われわれは、映画とは何かを知るだけだ(合掌)。

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2016年1月19日 (火)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』──トルコはヨーロッパの北朝鮮か?(★)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』(カアン・ミュジデジ監督、2014、原題『SIVAS

』)

 筋金入りの愛犬家としては、かなり不快な映画である。愛犬家といえど、犬にだけは生まれたくないと、本作以外でも思ってしまうが、本作ほど、犬をバカにした映画もない(怒)! まず、闘犬は、闘うように「仕込まれる」。まるで、古代ローマで奴隷同士を闘わせて血を見て喜んでいる貴族の楽しみが、この古い国家にも残っていると見えた。

 馬も年をとれば捨てられる。小学校の劇は、村長の息子が主役と決まっている。おとなの男たちはマッチョ思想に染まり抜き、かつズル賢さだけはイッチョまえである。土地は殺伐。こんな中で、子供がいかなる純な気持ちを抱こうと、誰もそれを育ててはくれず、希望も芽生えた先から摘み取られる──。闘犬に負けて、死んだと思われた犬はそのまま放置され、やがて骨になっていくのか。しかし、犬は死んではおらず、少年はそれに目をつけ、彼なりの考えで、文明国の少年がペットと育む友情を犬と育もうと「夢見る」が、それは一瞬のことである。まず年の離れた兄が犬に目をつけ、内緒で売ろうとする。それを知った少年は怒りまくる。その怒り方は半端ではなかったが、いずれ、おとなたちの思惑に取り込まれ、ペットは闘犬の運命へと引き戻される。少しの違和を感じた少年も、やがては、どこにでもいるような、非文明社会のマッチョな男になるのだろうか、あるいは、イスラム国のようなものに取り込まれるのだろうか──。

 監督は、イッチョまえに、ゴダールの影響を受けているのだろうか? 手持ちカメラでがんばっている、が、それだけのものである。ゴダールには教養があり、画面は正確かつ美しかった。だから、「アイロニー」を表現し得た。本作には、アイロニーのかけらもない。評論家氏が、「少年のカメラの画面に拮抗しうる眼差し」などと、抽象的な美辞麗句でホメたたえるのを見れば虫酸が走る。

 「犬的」にも、リアリティなし。犬同士が本気で闘ってないことは、尻尾を振っている、首まわりしか噛んでいない(後半身を噛むのは、遊びのルール違反だが、犬たちは遊びのルールに従っていた)、何かを食べさせるシーンは皆無、おそらく、うなり声は、べつのところで採取されたものをあてているのであろう。最も危険な手負いの犬にリード(細ヒモでも)をつけるシーンは省略され、いつしかヒモをつけた犬をトラクター(?)で引いていた。つまり、ほんとうの闘犬でないことはよくわかったし、最後のクレジット、No animals are harmedを見て一安心しても、いかにも犬的に不快な映画ではある。

 最後のいかにもアラブ的な叙情を押しつけるような音楽にも辟易である。

 トルコは、ホメロスを生んだ古代国家である。狭いボスポラス海峡の向こうまで国土は続き、ブルガリアと接している。しかし、ヨーロッパの中心国、ドイツ、フランスから見たら「最果て」である。そういう取り残された国が、観光客のいかなる幻影を誘うのかは知らないが、本編を見るかぎり、私には、どこかの国にさも似たりといった感じがしましたがね。

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2016年1月11日 (月)

『ブリッジ・オブ・スパイ』──「歴史」が心に染みる(★★★★★)

『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2015年、原題『BRIDGE OF SPIES』)

「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少なかれ限定を受けざるを得ない神話だ。歴史は歴史といふ言葉に支えられた世界であって、歴史といふ存在が、それを支へてゐるのではない」(小林秀雄『ドストエフスキーの生活』)

 スピルバーグがどのように「歴史」を描くかに、ずっと注目してきた私にとって、スピルバーグが、他のいかなる芸術的な監督よりも、映画作りに長けていることは知っている。スピルバーグに駄作はあり得ない。淀川長治が、無名のスピルバーグの『激突』を「しかたなく」観るはめになったが、観ているうちに、「こいつ、映画がわかっている」と舌を巻いたことをどこかに書いていた。

 本作で印象的なのは、国家を超えた個人と個人の友情もさることながら、国家とは何かを問い直していることである。とくに、アメリカなど、雑多な人種の移民によって成り立っている国は、いや、仮に単一民族で構成されていると思われている国であっても、その場所を国家として成り立たせているのは、ルール=憲法である。主人公の弁護士は、そのルールを知り抜き、それを武器として「闘い」を進める──。

 一介の保険専門の弁護士でありながら、その交渉力を見込まれて、ソ連のスパイとして逮捕された男の国選弁護人を任され、ひいては、国家間の「スパイ交換」へと引きずり込まれていく──「不屈の男」。

 一見サエない日曜画家風ながら、冷静沈着、凄腕スパイであることをうかがわせるアベル(マーク・ライアンス)。彼はその国選弁護人、ドノヴァン(トム・ハンクス)に引き合わされて、ごく早いうちに、ドノヴァンが、「不屈の男」であることを見抜く。ゆえに、一見並外れたところがない男を、父から見ているように言われ、その結果、その男の不屈性を認めたという、子供時代のエピソードを、さりげなくドノヴァンに話す。

 よき夫であり父親であるドノヴァンが非凡なのは、ソ連で逮捕されたアメリカ人の(偵察機の)パイロットとの1対1の交換ではなく、同時に、東独で逮捕された、アメリカ人の学生をも加えた、2対1の交換の交渉に持ち込むところである。これは、冒頭の、保険弁護士として、いくつかのものを一つと見るという説明が伏線ともなっている。

 「闘い」の舞台は、ソ連本国ではなく、雪の東ドイツ。ブルーグレーの光の中、「壁」に沿って歩くトム・ハンクスに深く感情移入する──。ただ、国家とか個人とかを描いた映画ではない。上に掲げた小林秀雄の言葉をも思い出させる作品である。

 決して観客を裏切ることのない、トム・ハンクスの信頼の演技。かてて加えて、マーク・ライアンスの、イギリス仕込みの芸術的味わい(かつては、『インティマシー』(2000年)で、オジサン、オバサン版『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の関係を描いてみせた、心に残る役者)。「二十世紀」から遠く離れて、じっと雪のように降ってくる「歴史」について考えてみたくなる映画である。

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