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2020年5月

2020年5月30日 (土)

「有名人」伊藤比呂美さまへ

「有名人」伊藤比呂美さまへ

伊藤比呂美さんが、Twitterで、以下のようなTweetを展開されていたのを、ついさっき知りました。私はブログが連動して表示する以外は、基本的にはTwitterを利用しておりません。あまりにも息の短いことしか書けず、しかも、点でしかものを見ることも、いうこともできません。伊藤さんも、以下のように細切れで続けることしかできませんでした。
私が書いたAmazonレビューには、(当然のことながら)不快感を表しています。以下、「返信」を挿入していきます。Twiiterで不可能でした。もしかしたら、伊藤氏が拒絶しているかもしれません。

私は本業は小説を書くものを目指していますが、伊藤比呂美さんは、身辺雑記の内容を切り売りする売文業者であり、その「助っ人」の豊崎由美さんは、書評を売る「書評家」です。

【伊藤比呂美(敬称略、以下【伊藤】と略】
拝啓山下晴代様。先日アマゾンで私の「道行きや」のレビューに、あなたからの酷評が載りました。私は基本的には、どんな思想もどんな考え方もそして表現も、封殺されるべきではないと考えます。ですからそれが、文章として最低にひどいものであっても、封殺されるべきではない。
実を言いますと私が今回立ち上がったのはこの点です。許せなかった。このようなひどい言葉を、私を助けようとしてくれた人に投げつけられるのが。あなたのレビューを批判した豊崎由美さんに対しても、同じくです

【山下】
「私を助けてくれようとした人」、これの認識が問題で、私は、「横やりを入れてきた用心棒」と見たわけです。
私は二十年くらいAmazonレビューを書いたり見たりしていますが、こういう「レビュースタイル」は私としては常のことです。しかし、モンクを言われたことは一度もありません。熊野純彦さんにも似たようなレビューを書いています。


【伊藤】しかしそれが一応批評/書評の形をとるならば、それなりのルールに従ってもらいたい。あなたのこれはルールに従っていないので、取り上げるべきではないのですが、いろいろ考えるところがあり、つづけます。

【山下】お金をもらってする批評家、書評家は、好き勝手は書けない。Amazonという商店が独自に設けているルール、あるいは、警察レベルのルール以外、ルールがないのが、レビュー界で、それをしらずに、自分に都合のいい作法をレビュアーに押しつけるのは、世間しらずもいいとこということです。

【伊藤】自分と違うということでそれを認めないのではそこに文学がうまれる素地がなくなってしまうではないですか。
あなたはがわたしに対してこのような個人攻撃をするその理由を考えてみました(「女の一生」のときも同様の酷評されました)。このような事は、実に個人攻撃になるのでやめたかったのですが

【山下】私が「女の一生」について何か、書きましたか? それとも別の人ですか? その書き手と、読者をすべて、十把一絡げにするわけですね。

【伊藤】目には目を、歯には歯をということばもあります。何十年も前に私はあなたから直接の連絡をもらいました。同じ詩人で同世代です。会ったことはなく、名前は知っているという程度でした。そのときいきなりあなたが切り出したのは、「仕事を紹介してもらいたい」と。私は大変驚きました。

【山下】ここのところ、少し記憶違いがあられるようです。「編集者を紹介していただきたい」と手紙で書いたのです。実を言えば、それはまったく私の考えではありませんでした。

【伊藤】私たちの業界はそういう頼み事は、基本的にしないと信じていたからです。私たちは、カネはないがプライドはある仕事なので、そういうふうに他人のおこぼれを預かるという事はしない。でもあなたがそれをしてきたので、私が戸惑ったのは当然のことだと思います。しかし私はこのようにナイスな人間なので

【山下】上にも書きましたように、それをしろと私に提案したのは、集英社の文芸誌「すばる」の副編集長(当時)でした。「業界」が違ったようですね。

【伊藤】その戸惑いをなるべく表さず、当時懇意だった地元紙の記者を紹介しました。あなたはそこで映画評をはじめたと思いますが、どれくらい続いたか、評判はどうだったかは知りません。わたしはわたしの日常にもどりました。あなたの「レビュー」の中にある、有名人や一般人という言葉は、この経験をふまえて

ひねくれあがってできたものと考えました。くり返しますが、私はその時あなたに、なぜそのような卑しい行為をするのかと問い詰めた覚えはまったくありません。

【山下】すみません。その「卑しい行為」は、文学業界でも、田村隆一などに、祝婚家などを書いてもらった、この「業界」では、酸いも甘いもかみ分けた人でした。ちなみに、『田村隆一詩集』((第二だったかな? 思潮社)に「祝婚歌」があり、その横に彼の名前が書いてあります、恨むなら、その人を恨んでください。蔑むなら、その人を蔑んでください。今、存命かどうか知りませんが)

【伊藤】アマゾンのあなたの文章にわたしはたいへんいやな気持ちになりました。こんなこと、よくある、と思いつつ、いやな気持ちは消えませんでした。つい先日あったリアリティ番組の若い出演者の感じたことなど、ほんとうに身にしみました。それでわたしはtweetしたのですが、それを読んで、

大いなる義侠心で、とても良いレビューを書いてくださった人がいました。それに対してあなたはブログ上で、この人に対して心ない言葉を投げつけた(「名文」とほめてはいたけどね)。

【山下】YOTAという名前で、おそらくは、Amazonレビュアーをバカにしていた豊崎由美さんではないでしょうか? 非常に抽象的な感情的な文章で、書き慣れた感はありました。こういうふうに、褒められたいんですね。
「大いなる義侠心」とか、助っ人とか、まるでヤクザじゃないですか。

【伊藤】実を言いますと私が今回立ち上がったのはこの点です。許せなかった。このようなひどい言葉を、私を助けようとしてくれた人に投げつけられるのが。あなたのレビューを批判した豊崎由美さんに対しても、同じくです。

【山下】「私を助けようとしてくれた人」、この考えがすでにして、「有名人」のヤクザです。

【伊藤】詩人として、文章を書いて売る者として、これまで、それはたくさんの酷評悪評批評ともいえないののしり文を投げつけられてきました。基本的に私たちは言われっぱなしです。いろいろな感じ方がある、考え方がある、価値観がある。それをまた血肉にして次の作品ができてくる。そう思っておりました。

【山下】「われわれ」一般人も、「有名人」の方々に、言われっぱなしではないですか? 

【伊藤】しかし昨今、web上のこの軽々しく、ルールも何もなく、人を攻撃する行為、ほとんど嗜癖のような行為が、世の中に蔓延しています。雑誌や新聞のようなしっかりした編集者の目も通さずに垂れ流されるこういう表現だらけになってきて、しばらくは、それも仕方がないと思ってきましたが

【山下】「雑誌や新聞のようなしっかりした編集者の目も通さずに」って、あなたの今回のエッセイが、しっかりした編集者の目を通しているとは、とても思えませんでしたので、こちらも「あえて」書かせていただきました。

【伊藤】黙っていられるか。立ち上がるべきだと思いました。

【伊藤】1つの作品を書くのにどれだけの命をけずるような思いをしているか、いやもちろんそれはこちらの事情、そんな苦労をしてもだめなものはだめだ。しかしそうやって必死で書いたものを、このようにろくに読まずに(ちゃんと読めば、こんなことを言われる筋合いのないものだとハッキリと自負しています)

【山下】買った(今回場合、友人が、ですが)本をどのように読もうが買った人の自由(小林秀雄)ですが、あれは、ひどいシロモノですよ。あんな生活(『道行きや』参照)していれば、なにを書くのも、「命をけずる」ような目に遭わねばならないと思います。あなた自身は、ひっちゃきになって書かれているかもしれませんが、ほんとうの文学はそんな状態では書けません。

【伊藤】自分のゆがんだ私怨のために、からかわれ、いじめといえるやりかたでもてあそばれることに耐えようという人がいたら顔を見たい。以上です。これ以上会話はつづけません。やめなさい。恥ずかしい行為であることを知りなさい。何十年も前の、あの尊敬すべき詩を書いていたあの頃の心を取り戻しなさい。

【山下】長い間、私は自分の事情を公にはしませんでした。いま、時効と思うので、いいます。
私は集英社の文芸誌『すばる』に、小説を四作発表し、五作めも載る予定でしたが、かならずしも快心の作とはいえず、何か違うと思いましたので、みずから取り下げました。そして、以後、数十年の文学修行の旅に出ました。「作家志望諸君へ」というエッセイにあった、小林秀雄の勧めにしがって、「最低二カ国語以上の外国語をマスターしなさい」とあったので、英語、フランス語の修行をしてきました。どちらでも、通訳、翻訳で、仕事ができる程度にはなっています。とくに、フランス語は、テキストは自在に読めるようになったので、ミシェル・フーコーの研究をしており、Webでも少し発表しています。これは、上記の編集者も認めてくれていることです。
テクストを読んでおれば、自然に引用は頭に浮かびます。あなたのエッセイには、なんらそんなところはなく、ただの身辺雑記書き流しです。
(エッセイにあった)熊本に友だちがいるということですが、まー、私から見ると、あなたが帰国されたおり、三千円もするウナギを食べいくことなど、友だちとは言えません。友だちとは、あなたに代わって、親の面倒も見てくれる人のことです。私は、あなたの今回のエッセイ集を読んで、「わざわざ不幸を選んでいる」と思いました。なるほど、ナイスな人間ね。でも、ナイスな人間だったら、そこまで不幸ではないはず。犬を預かってくれる「城さん」(なぜか実名?)も、それほどよくは書いてなかったし。だいたい、文筆一本で食えていたら、あちこち仕事のために移動することもないと思います。犬を飼おうと思ったら、身代わりになるくらいの覚悟がないと。
あなたの経験なさったことは、一般人にとっても、そうそう目新しいことではないと思います。
そして、あなたのエッセイは、精神科医に日常生活を報告して安心する、そんな内容みたいだなーという印象を持ちました。普通は、そういうものは切り売りしません。しかし、あなたは、それを商売にして、えらそーに、上から目線で、一方的に反論して、「対話は打ち切ります」と、勝手なことを言い放ち、それこそ「指示してくれる人々を味方に」、無名人を叩く、これが「有名人」の権力でなくてなんですか?

註:豊崎氏指摘の、「(笑)」の多さは、「余裕のなさの証拠」だということなので、というか、すでに大昔、編集者に、「(笑)は、やめなさい」と言われていたのですが、今回は、入れたいところもあえて入れませんでした。私も小説を志向する人間ですから、どのような文章も書けますが、webでは、現実感を出すために、「(笑)」や「(爆)」は濫用しています。

あ、そうだ。いま、「みちゆき」という小説を思いついたので、その題で書こうかなと思ってます。当然ながら、これは、細田傳造氏の詩集『みちゆき』から思いついたのであって、しかも、たしか、あなたのエッセイ集にもいっさい言及がなかったと思いますが、その「発明者」近松門左衛門についてです。

ご健筆を草場の陰からお祈り申し上げております。

(豊崎由美さんへのブロックは、公平でないので解いておきました。ら、さっそくご登場です)

 

 

 

2020年5月10日 (日)

【昔のレビューをもう一度】『君の名前で僕を呼んで 』──愛とは教養である

●愛とは、男と男の愛しかない。

『君の名前で僕を呼んで 』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』)2018年5月1日 23時27分

愛とは教養である。教養がないと、「モーリス」映画を期待して外されたと悪態をついたり、ストーリーや演出の起伏がないなどと、自らのバカを露呈することになる(笑)。
 主人公の17歳の少年は、実は(当時)22歳の、ショーシャ・ローナン男版のような、ニューヨーク生まれのアメリカ人俳優が扮している。巧まずして、こういう「深さ」は出せないだろう。北イタリアの自然に富んだ別荘地が舞台ながら、制作側は、自然に、任すわけにはいかない。具体的に所在地を設定せず、「こんなことがありました」的な展開である。
 古代ローマ文明研究者の大学教授の屋敷に、「例年のように」大学院生が、おそらくは、教授を補佐しつつ、自らの論文を書くためにやってくる。それは毎年のことなので、教授の17歳の息子やガールフレンドたちは、「今年はどんなやつかな?」的な興味しかない。それが……
 車から降りた彼は、身長190センチ超、だけど、ごつさは全然なくて、遠目でもハンサムとわかる。しかも、教授がしかけた、母の出すアプリコット・ジュースを飲みながらの、「第一の難問」。アプリコットの語源をも、難なく自説を披露して、教授のお試しを、突破する。少年は少年で、バッハなど、クラシックを編曲する趣味(?)を持っている。ピアノも、オリジナルにすばらしく弾ける。母とは、フランス語で話している。ということは、母親はフランス人か? ガールフレンドともフランス語で話していて、一家は英語で話している。お手伝いさんや下男(まー、差別語ですかね(笑))などとは、イタリア語で話す。
 すると、この一家はユダヤ系フランス人なのかもしれない。だいたい、教授の名字のパールマンは、ユダヤ系の名字だ。やってきた、アメリカ人の青年も、ユダヤ系である。
 頭脳明晰の、オリヴァー(アーミー・ハマー)だからこそ、「最高の愛の交換」を思いつく。「きみの名前でぼくを呼んで。ぼくの名前できみを呼ぶから」。これこそ、時間にも社会的条件にも打ち勝つことのできる最高の愛の証である。よしや、この二人に「ハッピーエンド」があるとして、それは、途中でパールマン家にやってくる、年老いたゲイ夫婦のお客のようになるのが関の山。かくも、時間は残酷である。美しいまま、美しい時間を凍結するなら……「きみの名前でぼくを呼んで」である。だから、(「オリヴァーの帰国」で終わってもいいはずだった)物語は延々と続き(このあたりが、フツーの映画しか知らないか観客は冗長に感じてくる)、アメリカへ帰ったオリヴァーから突然電話がかかってくる。それは、不自然でもないように、ユダヤ特有の、「ハヌカ祭」の日に設定されている。オリヴァーはそこで、自分の婚約を告げる。けれど同時に、少年への愛も伝える。お互いは、自分の名前で相手を呼び合う。これこそ、時間にも社会の規制にも打ち勝ち、いつでも二人の時間を取り戻すことができる術(すべ)なのだ。
こうした「映像の文学」に、通俗的なドラマチックな展開(バカが、「母親とできるとか」と言っていたが(笑)。そういう意味では、ブ男、ダスティン・ホフマンの『卒業』は、通俗である(笑))を求めても意味がない。しかも、美として表現されるためには、演じる男優たちの洗練された演技術、かつ、美しい肉体が必要である。とくに、少年を魅了する、「おとなな」男の美は、今役者としてノリにノッている、アーミー・ハマーあってのものだろう。彼は、今、ブロードウェイの舞台に立っている。ぜひ、生(なま)アーミーを見るために、ニューヨークへ行きたいものである(笑)。




2020年5月 1日 (金)

『砂の惑星』──変態向き「おこもり」SF

『砂の惑星』( デヴィッド・リンチ監督、1984年、原題『DUNE』)

 AmazonPrimeレンタル(199円)で見ました。コロナ時代となって、なんかもういっぺん見てみようかな、という作品を見ています。36年前の作品。今から見ても超イケメンのカイル・マクラクランと、なかなかかわいいスティングの対決が、クライマックスとして残されています。それにしても、ゆるい、長い、重い、暗い、古くさい(笑)。結局、宇宙の星の話でも、物語の基礎は、イタリアあたりの中世の貴族たちの権力争いなんですね。本作の特徴は、砂漠の惑星の奥深い場所に、スパイスが繁茂していて、そのスパイスは、人間の意識を変える力があって、それが夢として現れたりする──といえば、『惑星ソラリス』を思い浮かべるが、ああいう完全に「未来的な」透明感はなくて、悪者とよい者が、戦うだけ。それでも見るに耐えるのは、きっちりとした構図のおかげ。ワンカット、ワンカットが妙に正確なんです。こういう映画では、それは欠点になったりするんですが……(笑)。
 FaceBookの宣伝で、「マスタークラス」(専門家に習う講座、各界の専門家が、演技、料理、インテリアデザイン、小説作法、などなどを教えている)というのがしょっちゅう流れてきて、デヴィッド・リンチの映画作りのクラスもあり、それで、本作を再見する気になったのだが、ひゃー、こんな映画でしたか〜……という感じ。さすがに教えるだけあって、基礎はきっちりしてるんですが。キャストも、カイル、スティングをはじめ、ポール・スチュアート、シルバーナ・マンガーナ、ヴァージニア・マドセン、ショーン・ヤング(超美人だったな〜)などがごっちゃり出ている。
 テーマは……もはやズレてしまったという感じですかね(笑)。しかし、どこか「コロナっぽい」んです。この重さ、暗さ、どうしようもなさ、残酷さ、未来がどこにもないようなSF(笑)。さすがデヴィッド・リンチ。「処女作」(?)の『イレイザーヘッド』のテイストが残っているんです。妙に生理的という。そう、観念世界を、具体的生理に移し替えるんです。つまり、変態(爆)。

 

 

 

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