文化・芸術

2016年12月 6日 (火)

【詩】「飯島耕一が染みる朝」

「飯島耕一が染みる朝」

ブラッサイの写真集に書かれた、飯島耕一の文章を読んでから、なぜか気になりはじめた。それで、リビングの扉付き本棚にしまい込んでいた、一九七六年に出た(それは七〇年に出たものの第二版だった)、『シュルレアリスムの彼方へ』という銀色の本を取り出してきた。夥しい本を古本屋やブックオフに売ったが、この本はいつまでも、難を逃れていた。この本はどういう本かというと、飯島耕一と大岡信と東野芳明が、シュールレアリスムについて、いかに無知だったか、しかし、いかに熱中してたか、つまり、無知で熱中していることを、実にほがらかに書いた本である。そして、それだけ、シュールレアリスムの近くにあったと主張する本だ。

ああ、今更ながらに、飯島耕一が染みる朝であるが、とうの飯島耕一はそんなこと、あの世で、想像だにしないであろう。四十年も経てから、深く共感してくれる読者が現れようなどとは──そんな朝だ。

ボードレールが時間のように降ってくる。

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2015年6月27日 (土)

詩「鹿児島中央」

「鹿児島中央」

さくらは、そのような名前の駅へ向かって走ります

「かごしまちうおー」という音が私の頭のなかで響く

それは、三波春夫の『俵星玄蕃』の、「めざすは、まつざか、ちうおー」という音と「完全一致」する、しかし

三波の語っている言葉を文字にすれば、「目ざすは、松坂町」、つまり、「ちうおー」と発音された言葉は、「中央」ではなく

「町」であった、つまり、

三波は、「まつざか、ち・よ・お・う」と発音し、それが、

「ちうおー」と聞こえるのだ

なぜか、三波は、俵星玄蕃が槍を取って、赤穂浪士の討ち入りの助太刀に行く場面をセリフで描出するのに、

「松坂町」の、よりにもよって、「町」の文字をいちばん強調しているのである

その理由は、それが歌へと移るセリフ部分の最後で、歌へと

繋げるため、劇的場面を盛り上げるために、この物語には

あまり意味のない、「町」という言葉を最大限に印象深くかたっている

なにも江戸時代の人形浄瑠璃の語りなどを、わざわざ「古典」から「学ば」なくても、われらが三波春夫が全部やっちまっているんである、あの

唇を噛みしめて、ぐいとエネルギーをため込んだ発声のしかたで、日本人の最大限の「劇的」を歌い込んでいく

めざすは、まつざか、ちうおー

小倉駅のホームで、「鹿児島中央」と、電光掲示板に表示されたその文字を見るたびに、三波の声がよみがえるのだ

しかし、住んでいる博多から小倉へ新幹線で行くとき、当然ながら「鹿児島中央」はない

それは「新大阪」だったりする

ところで道場で槍を教えている玄蕃は、真夜中、山鹿流の陣太鼓の音を聞いて、いざ助太刀と、長押の槍を取って雪の夜の江戸の町に飛び出す

その陣太鼓の合図は、「いちうち、にうち、さんながれ」である。

「ゆきをけたてて、さっく、さっく、さくさくさくさく──」

「昼間別れた蕎麦屋はおらぬかあ〜?」

「せんせーい!」

「おお! そばやかあ〜!」……おっと今はもう弟子の蕎麦屋ではなく、赤穂の義士、名は、羽織の襟に書かれている、杉野十平次どの。

持ち出した「武器」は、刀、槍、のほかに、げんのう、のこぎり? つまりはDIYの道具?

吉良の首「かくにん」

明け方にはすべて終わり、一向は、菩提寺である、高輪泉岳寺へ

「汽笛一声新橋を〜♪」やがて「高輪泉岳寺、四十七士の墓どころ〜」

そして「鹿児島中央」、かごしま、ちうおー!

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2015年6月21日 (日)

ほんとうの詩の朗読はこうあるべき

ほんとうの詩の朗読は、こうあるべき。

日本では、よく、政治家の演説もそうであるが(笑)、自分の詩なのに、原稿を見ながら朗読しているのを見受ける。だけど、自分の詩なんだから、諳誦して朗読したら、どうだ? あれは一種の照れ隠しなのか(笑)?

この若き詩人は、かつては、女性だった。今、男性へ移行しつつある「トランスジェンダー」である。彼は、かつて女だった自分への手紙を詩にしている。

エミリーへ。

野球放送を見ていて感じたこと、父との関係、乳房を削除し、生理を止めたこと──。外面と内面に起こったことを誠実に詩にして、かつての「女だった自分」への惜別としている。詩は訳しません。それぞれが味わってください。

最後に、「エミリー、きみを憎んだことは一度もないよ」

http://www.seventeen.com/life/news/a31575/a-letter-to-the-girl-i-used-to-be/

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2015年4月28日 (火)

大石良雄へのソネット

「大石良雄へのソネット」

夕闇の底冷えのする江戸の町をさまよい、

大石はふと思うのだ。

もしも、ああした事件がなかったら、

ただの昼行灯と呼ばれる平凡な男として、

生を終えたに違いない。

彼の胸に甘くよぎるのは、血まみれの大八車、

殿の、切り離された頭と体が載っていた、ではなく、

鈴ヶ森で鳴く烏たちでもなく、

山科で契った女でもなく、マーラーの交響曲第一番。

いまの聖路加病院のあたりが、殿が切腹された場所。

大石は二年後、自分の息子を含む四十五人の家臣とともに、同じ最後を遂げた。

四十六人の戒名すべてに、「刃」という文字が入れられている。

それは大石の望むところではなかった。

彼はむしろ「夢」と。

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2015年4月21日 (火)

ミシェル・フーコーへのソネット

ミシェル・フーコーへのソネット

きみにシェークスピアのソネットの有名な第十八番を贈ろう。

きみはまだドイツのある街にあるカント記念館の若き館長で、

そこで大変な間違いを見つけた。

だが、歴史はそれを問題にしない。

人々はそれを忘れ去る。

きみはドイツ語が得意で、世界は、まだ完成されていない。

きみは男の恋人のことを思う。

ゲーテがワイマールで人妻を思ったように。

鷹か、鷹だ。飢えた鷹だ。朝一で獲物を探している。

ゲーテがそれを詩にして、さらにベケットがそれを詩にした。

詩は、鷹の狙う獲物に似ているじゃないか。

実際、時間はなにを運ぶのか。

ベラスケスの『侍女たち』のなかには何が隠されているのか。

それは画家の視線とか"われわれ"の視線とか、そういったものじゃないだろう。

A sonnet to Michel Foucault

That Shakespeare's sonnet number 18 is given for you.

You are still young director of Kant's memorial hall in a town in Germany.

Where you've found a big mistake.

But history do not take notice of it.

They forget it.

You are very good at German, and the world is not comlete d yet.

You think about a male lover.

Like Goethe who thought about a married woman at Weimar.

Hawk? Yeah, a hawk. A hangry hawk. Seeking for prey first in the morning.

Goethe wrote him in his poem, and Beckett wrote them in his.

Don't you think poem looks like prey aimed by hawks?

What does time carry actually?

What is hiden in Velazquez,s " Las meninas"?

No, not painter's look, nor "ours" at all.

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2015年4月12日 (日)

『バードマン』レビューの補記あるいは、分析

 本作は、個人的にも好みの、というより、ほとんど自分の目ざしていることと近すぎて、いろいろ疑問が出てくる。いい映画ではある。それゆえ、時間をかけて考えてみたいと思う。

 たとえば、終盤、出番を控えた楽屋で、銃を出し、それに実弾である「マガジン」を充填した。銃は劇中の小道具であるが、ここで、リーガンが舞台の上で自殺を試みることが「示される」。それをさらに補強するかのように、幕の袖(そこから登場する)へと至る舞台裏の通路を歩いていくと、小道具係が、「何度も」、「リーガン、銃は?」と声をかける。リーガンは無視してすすむ。小道具の銃は受け取らない。実弾入りの「自前の銃」を持っているから。いよいよ、その場面、無価値のおのれの存在をののしりながら銃を出してこめかみにあてる……。バンッ!銃が発射されるが、(映画の中の)「暗転」となり、次には、リーガンは病院にいる。彼が「生きている」ことが「示される」。ここで、私は、「なんで?」と思った。では、あの「ほのめかし」なんだったのだ? 考えられることは、リーガンがおのれのこめかみを撃つ瞬間、気が変わって、銃を持った手をこめかみがら外した。それが遅れて自分の鼻を撃つことになり、「鼻を失った」。『ハングオーバー』のだらしないデブだったが、痩せて(笑)ヤリ手の弁護士となって登場しているザック・ガリフィアナキスが、「その鼻が気に入らなかったら、何度でもすきな鼻と替えるがいい」みたいなことを言われ、ついでに、「メグ・ライアンの整形医を紹介してもらうか」みたいな楽屋オチ的ギャグ(この映画には満載であるが)を言う。

 レイモンド・カーヴァーの作品「愛について語るとき我々の語ること」の舞台化であるが、登場人物の三人がテーブルを囲んでいて、そこに、リーガンの役が登場し、みたいなシーンが何度も繰り返される。芝居の全体は見せない。この場面と、ナオミ・ワッツとエドワード・ノートンがひとつベッドに寝ているところに、銃を持ったリーガンが登場し終局へと至る、このふたつの場面のみである。このあたりが、洗練されていると見る。つまり、素材としての芝居の場面は最小限に抑えられている。

 最後、顔の上部、つまり、バードマンの被り物をしているときちょうど隠れている部分と重なるが、その部分に銃の自殺未遂によるケガを保護している包帯というか絆創膏というか、白い当て布がされているが、ベッドから起き上がったリーガンは、鏡の前に行きそれをむしり取って、おのれの悲惨な顔をつくづく眺める。窓辺へ移動。窓をあけ、再び自殺の試み?と思わせる場面となる。そこから「飛び降りたかのような」印象を与えるシーン。娘のエマ・ストーンが花を活ける花瓶を持って戻ってくる。パパがいない。不審に思ってあちこち探し、窓が開いているのに気づき、不安な顔で近づく。窓の下を左右に探すエマ・ストーンの顔。やがて、視線は上の方へ向き、その表情のみで、リーガンがバードマンになって空を飛んでいるのだろうことが示される。ここは自然な動き、なめらかな表情の転換が必要とされるが、映画なら、編集でなんともなるので、とくに演技力は必要とされないかもしれないが、まあ、あの笑顔はそれなりの演技力ではあった。

 この映画について、「まるで切れ目なしに撮影されたかのような」ということが、「宣伝」もあるのだろうが、騒がれたが、いま、編集技術を高度になっているので、たとえそうであったとしても、そんなことをやっても意味のないことは監督自身がわかっているだろう。

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2014年12月17日 (水)

「ときどきのマラルメ」1

「花々」より(『ドゥマン版』より 拙訳)

くすんだ青の黄金の雪崩たちが

はじめてにして天体たちにとっては永遠の雪の日

その昔きみは大腎杯を切り離した

まだ若く災厄を知らない土地のために、

[Mallarmé de temps en temps](mercredi 17 décembre)

De "LES FLEURS" (de "EDITION DEMAN")

Des avanches d'or de vieil azur, au jour

Premie et de la neige éternelle des astres

Jadis tu détachas les grands calices pour

La terre jeune encore et vierge de désastres,

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2014年11月22日 (土)

ヴィゴ・モーテンセンに「ウェルカム・ボート、マム」と言われたい(笑)

(アメリカでいちばんセクシーと思われる俳優、ヴィゴ・モーテンセンと、「アメリカの良心」と言われる学者のハワード・ジン(故人)が友だちであり、モーテンセンは、ジンの活動に協力していたというニュースを見て、急に思い出した↓)

 かなり前に、デミ・ムーア(いろいろ「お直し」している俳優が多いが、デミは高校時代の写真と、一番人気のあった頃の写真がほとんど変わらなかった。その後、ストリッパー役のため、すごいお金をかけて、体を「お直しした」とも言われるが……(笑))が、海軍だかの軍人で、「女でもできるキャンペーン」のため、海兵隊に入れられ、地獄の特訓を受ける。生え抜きの男子軍人でもネを上げる、アメリカ一厳しい特訓である。

 その教官を、ヴィゴ・モーテンセンが演じた。顔はサングラスをしてよく見えないが、スリムな肢体、アゴのライン、イケメンであることが丸わかりであるが、情け容赦ない鬼の教官である。

 デミは鍛え抜かれる。いっさい手抜きなし。教官からは、まるでゴミのように扱われる。しかし、見事合格し、白いマリンの制服を着て、乗船する──。

 合格者ひとりひとりを、合格の印を与えつつ出迎える教官。これまで、ゴミのように扱っていた教官が、恭しく手を差し伸べる。

「ウェルカム・ボート、マム」と言って。

(写真は、カンタブリア海@北スペイン、向こうは、イングランド)

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2014年11月21日 (金)

芥川龍之介に捧げる句

草餅や世を古妻の乳の垂り   芥川龍之介@大正13年(1924年、第2次護憲運動おこり、護憲三派による加藤高明内閣成立。築地小劇場開かれる。メートル法使用始まる。前年には、関東大震災。朝鮮人虐殺。大杉栄ら殺される)

3年後の昭和2年(1927年)、1月2日、芥川36歳、義兄(姉の夫)西川豊宅全焼、鉄道自殺のための後始末、整理にに奔走。

7月24日未明、田端の自宅にて、ヴェロナール及びジャールの致死量を仰いで自殺。枕元に聖書があった。

7月27日、谷中斎場にて葬儀。

先輩総代、泉鏡花

友人総代、菊池寛

文芸家協会代表、里見弴

後輩代表、小島政次二郎

の弔辞。

(『芥川龍之介全集 第12巻』(1978年、岩波書店刊)より)

毒あふぎベアトリーチェと夜寒かな  山下@2014.11.21

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2014年9月20日 (土)

プラド美術館の目玉

 プラド美術館の目的は、ベラスケス『侍女たち』(1656年)。『プラド美術館の三時間』の著者(エウヘーニオ・ドールス)に言わせれば、美術館の前にある樹木も、「世界の名木」なんだそうである。この、自画自賛的スペイン人の評論家の言葉を待つまでもなく、あたりはたいへん心地よい雰囲気に包まれている。

「あたかも画家は、自分が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうように。彼は、両立しがたいこの二つの可視性の境界に君臨しているのである。

 画家は顔を心もちまわし、頭を肩のほうに傾げて見つめている。目に見えぬ一点を凝視しているのだ。けれどもわれわれ鑑賞者には、それが何か容易に指摘することができるのである。その一点こそ、われわれ自身、われわれの身体であり、われわれの顔であり、われわれの眼であるからだ」(ミシェル・フーオー『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、1974年、p.27)

" Comme si le peintre ne pouvait a la fois etre vu sur le tableau ou il est represente et voir celui ou il s'emploie a representer quelque chose. Il regne au seuil de ces deux visibilites incompatibles.

    Le peintre regarde, le visage legerement tourne et la tete penchee ver l'epaule. Il fixe un point invisible, mais que nous, les spectateurs, nous pouvons aisement assigner puisque ce point, c'est nous-memes : notre corps, notre visage, nos yeux." (Michel Foucault "Les mots et les choses". p.20 (Editions Gallimard, 1966)

Jijotachi

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