映画・テレビ

2017年1月23日 (月)

『沈黙 −サイレンス−』──俳優の肉体+風景美のカット+クリアな問い(★★★★★)

『沈黙ーサイレンスー』( マーティン・スコセッシ監督、2017年、原題『SILENCE』)

 

 フロイスの日本史によれば、本作の時代より百年ほどの前の織田信長の時代より、キリスト教徒の迫害は行われていて、それは、信長自身による、一種の「ジェノサイド」のようだった。キリスト教徒はもちろんのこと、ついでに反抗的な百姓など、ちょうどナチのユダヤ人迫害の時、ジプシーや同性愛者も「処分」されたように、権力にとって都合の悪い人間、組織からはみ出してしまったような人々もまとめて、老若男女を問わず、大勢が処刑されていた。その場所は、おもに、法華経の寺であった──。

 日本の国としては、ようやく百姓などの下部組織にいる人間たちが、「村」単位に支配、搾取されるのに目覚め、一揆を起こし始める。それには、キリスト教がもたらした、個人の人間としての目覚めが、人間扱いされなかった人々の意識を支えたとも言える。そういう「思想」は、キリスト教であれ、なんであれ、権力にとっては邪魔なのである。その運動の頂点は、十五歳くらいの天草四郎をリーダーとした、島原の乱であり、何十日も城に閉じこもって抵抗したのち、ついに投降した。そうした事件ののち、本作の主人公のロドリゴとガルペの、二人の宣教師は、消息を絶った師、フェレイラを探して、マカオ経由で日本に密航してくる──。

 ここに描かれているのは、あくまでフィクションである。ポルトガルからの宣教師が、すらすら英語で話すのも現実離れしている。ポルトガルならカトリックであり、オランダはプロテスタントだから、同じキリスト教とはいえ、少し違っていたろうし、南欧からの「宣教師」たちは、南米では、原住民を非人間的なやり方で洗脳しているのだから、この日本へ来て、逆に迫害されているのは、いったいどうしたことやら?と思ってしまう。

 しかし、隠れキリシタンの伝説はあって、そういう小さなエピソードを、純文学らしからぬ筆致で物語ったのが、遠藤周作の『沈黙』なのであろう。

 そういう話を映画化しようと、二十八年も温め、ここに完成となったのであるが、ほんとうの歴史はどうかとか、日本の僻村の景色にしては雄大すぎるとか、廃村に群がる猫が太っていたとか、そういう話はおいておいて、これはとんでもなくできのよいエンターテインメントなのであろう。

 まず、役者がすばらしい。欧米、日本とも、メインキャストは長身、すらりとした美丈夫が集められている。スパイダーマンのアンドリュー・ガーフィールド、『スター・ウォーズ』カイロ・レンの、アダム・ドライヴァーが、二人の宣教師を演じ、よれよれの衣装に美しい肉体を包んで、苦しみに身をゆがめる姿もさまになる。日本側も、立ち姿が美しい、浅野忠信、窪塚洋介をあて、欧米の二人に決してひけを取らない。

 特筆すべきは、当然、キリスト教徒迫害担当奉行「イノウエ」の、尾形イッセイである。常に笑いを浮かべ、拷問の指揮を取る。このキャスティングは、尾形が、十数年前、ソクーロフの『太陽』で、昭和天皇を演じたのを、きっとスコセッシは見たのだろうと思う。そこには、批評性さえ感じさせる申し分ない昭和天皇が演じられていた。尾形はこの時から、すでに国際派の俳優となっていたのである。

 コンフェッションをしに来る、村のオバチャンの片桐はいりも、結構セリフが多く、相変わらず声を出して笑わせたが、とくに浮いてはいなかった。

 こういう俳優たちの肉体にくわえ、美しい自然のカット(台湾で撮られたそうだが)、そして、人間の精神とはなんなのか?という、クリアな問いの提出をくわえるなら、スコセッシが映画で表現しようとしていることも、おのずと明確である。魅せられ、考えさせられ、まずは極上エンターテインメントに慶賀を表する。エンディングの、音だけの、夏を思わせる「見えない映像」にも、粋な洗練を感じた。

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2016年10月12日 (水)

『真田十勇士 』──人は見た目が九割?(笑)(★★★★★)

『真田十勇士 』(堤幸彦監督、2016年)

 もともと舞台劇だったというが、映画の方が断然面白いに違いない。ベースは時代劇であり、考証も外しているわけではないが、思いっきり脱構築している。初めはアニメから始まり、それが結構続くので、「本編はアニメではありません。数分後に実写に変わります」などという「注意書き」まで登場。

 まあ、なんといっても、いきなり、真田幸村がチョーイケメンだったらどーする? ってな設定できた。誰が見てもチョーイケメンで、しかもそれなりの成熟した男となると、そんな俳優、日本にいたかな〜? イタリアならともなく。と思っていると、いたんですね、これが。イタリア映画に出しても恥ずかしくない男。加藤雅也。あ、そーいえば……。そういう人が……。しかし、この人、年取った今の方が、グンといいんですね。それを「利用」した作品。

 顔よし、スタイルよし、で、どうしても「りっぱな武将」と見られてしまう幸村。実際は、優柔不断な男。でも実は、誠実で正直な男。そんな幸村を見込んで、「抜け忍」猿飛佐助(中村勘九郎)が、勇士たちを集める。なかでも、すばらしく魅力的なのが、同じ「抜け忍」の、霧隠才蔵の、松坂桃李。なんか、霧も滴る(?)いい男なのである。忍者のボス(伊武雅人)の娘の忍者、蛍(大島優子)が惚れる。

 徳川家康が豊臣の残党、秀賴の大阪城を攻める、大阪、夏の陣、冬の陣。もうすでに「結末」はわかっている。わかっている「結末」までをいかに描くか。それが「時代物」の手腕である。うーーーん……と唸ったね〜。

 猿みたいな顔の勘九郎が、猿飛で、ベルサイユの薔薇のような髪型のまんまのグレーヘアのイケメン、加藤雅也が幸村で。彼に言い寄る淀君が、ぬあんと大竹しのぶである(迫力ありすぎ(笑))。結局、幸村は淀君を拒絶する。それは武士の「忍ぶ恋」(註:武士道とは?を説いた書、山本常朝の『葉隠』には、「恋の至極は、忍ぶ恋。思い死にすることこそ恋の本意なれ」とある。つまり、死ぬまで、思いを伝えずあの世へ持っていくのが最高の恋だ、と。スタンダールもこんなことは言ってない(笑))を実践しているのか? 大竹の風貌だと、そこんとこが微妙である(笑)。しかし、猿飛は、そういうことを淀君に伝えてしまう。聞いて涙する淀君。同じように、蛍にも、霧隠才蔵の「思い」を伝える。こうちらの方は、猿飛のでっちあげであった。

 しかして(なにが、しかしてだ(笑)!)、真田幸村は、見かけ通りのりっぱな武将なのであった──。しかし、物語はここで終わらない。だって、主役は、勘九郎の猿飛佐助であるから。歴史の教科書に描かれるような「正史」があり、その陰に、忍者の世界があるというのは、なかなかに面白いテーマである(ゆえに、いろいろな小説家が描いてはいるが)。まともな時代劇を期待して来た客は怒るかも知れない(笑)。

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『ジェイソン・ボーン』──甘さ0%、ジェームズ・ボンドの終わり(★★★★★)

『ジェイソン・ボーン 』(ポール・グリーングラス監督、2016年、現代『JASON BOURNE』)

すでに出尽くした感のある「スパイもの」。老舗は、イアン・フレミング原作「ジェームズ・ボンド」シリーズ、と、こちら、ロバート・ラドラム原作、「ジェーソン・ボーン」シリーズ。どことなく名前も似ているのは、ラドラムが、フレミングをパロッたのかも。いずれにしろ、昔のスパイ小説で、電子機器はほとんど出てこない。また、敵は、「ソ連」ではない(笑)。そこをいかに二十一世紀も十年以上過ぎた現代の「スパイもの」として仕立てるか。いま、「スパイ」とは言えば、当然、ネット社会を背景にした「スパイ」。とくに、ハッカー、それに対するセキュリティ、監視社会、国家とビジネスなどである。本作は、スノーデンのCIA暴露「以後」として、暴露と監視をテーマに、再び「悪役」は、CIAに戻って来た。なかでも、その「長」の、トミー・リー・ジョンズ。あれ? CIAにも血の通った人間はいたはず──の、前作、前々作? それが今回、悪の化身のような男が牛耳って、ジェイソン・ボーンを葬る……のではなく、もう一度、「こちら」へ取り込もうとしている。

 そして、世界監視を夢見て、IT企業の最先端にいる、若手起業家(ザッカーバーグを思わせるSNSのトップの設定だが)のインド系(いかにも)の青年。迎え撃つIT得意の優秀な部下に、アリシア・ヴィキャンデル。「コケティッシュな女スパイ」は卒業して、今回、甘さ何処にもない「理系女」(こういう非知な言葉はすきではないのだが、あえて)。これが、例の若手起業家と、スタンフォードで同級生だった、という一瞬の紹介は、なかなかに染みた(笑)。

 さて、主役のボーンであるが、昔の仲間のニッキー(当然、こちらも理系女)に助けられて、おのれの過去の「CIAのマル秘ファイル」を入手。父の死と自分の過去を知る。腕力だけでなく、当然、デジタル機器にも強くて、それを駆使しての戦いである。もちろん、グリーングラス監督ならではの現実感、カーアクション、戦闘あり。今回、アリシア・ヴィキャンデルがどこまで信じられる女かということが焦点だが、「007」のようなわけにはいかない(笑)。甘さ0%、ジェームズ・ボンドは完全に終わった。サイレンが鳴り、テーマ・ミュージック!→「Extream way」(モービー)、私はこれを、前作からiPodで聴き続けている(爆)。

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2016年1月19日 (火)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』──トルコはヨーロッパの北朝鮮か?(★)

『シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語』(カアン・ミュジデジ監督、2014、原題『SIVAS

』)

 筋金入りの愛犬家としては、かなり不快な映画である。愛犬家といえど、犬にだけは生まれたくないと、本作以外でも思ってしまうが、本作ほど、犬をバカにした映画もない(怒)! まず、闘犬は、闘うように「仕込まれる」。まるで、古代ローマで奴隷同士を闘わせて血を見て喜んでいる貴族の楽しみが、この古い国家にも残っていると見えた。

 馬も年をとれば捨てられる。小学校の劇は、村長の息子が主役と決まっている。おとなの男たちはマッチョ思想に染まり抜き、かつズル賢さだけはイッチョまえである。土地は殺伐。こんな中で、子供がいかなる純な気持ちを抱こうと、誰もそれを育ててはくれず、希望も芽生えた先から摘み取られる──。闘犬に負けて、死んだと思われた犬はそのまま放置され、やがて骨になっていくのか。しかし、犬は死んではおらず、少年はそれに目をつけ、彼なりの考えで、文明国の少年がペットと育む友情を犬と育もうと「夢見る」が、それは一瞬のことである。まず年の離れた兄が犬に目をつけ、内緒で売ろうとする。それを知った少年は怒りまくる。その怒り方は半端ではなかったが、いずれ、おとなたちの思惑に取り込まれ、ペットは闘犬の運命へと引き戻される。少しの違和を感じた少年も、やがては、どこにでもいるような、非文明社会のマッチョな男になるのだろうか、あるいは、イスラム国のようなものに取り込まれるのだろうか──。

 監督は、イッチョまえに、ゴダールの影響を受けているのだろうか? 手持ちカメラでがんばっている、が、それだけのものである。ゴダールには教養があり、画面は正確かつ美しかった。だから、「アイロニー」を表現し得た。本作には、アイロニーのかけらもない。評論家氏が、「少年のカメラの画面に拮抗しうる眼差し」などと、抽象的な美辞麗句でホメたたえるのを見れば虫酸が走る。

 「犬的」にも、リアリティなし。犬同士が本気で闘ってないことは、尻尾を振っている、首まわりしか噛んでいない(後半身を噛むのは、遊びのルール違反だが、犬たちは遊びのルールに従っていた)、何かを食べさせるシーンは皆無、おそらく、うなり声は、べつのところで採取されたものをあてているのであろう。最も危険な手負いの犬にリード(細ヒモでも)をつけるシーンは省略され、いつしかヒモをつけた犬をトラクター(?)で引いていた。つまり、ほんとうの闘犬でないことはよくわかったし、最後のクレジット、No animals are harmedを見て一安心しても、いかにも犬的に不快な映画ではある。

 最後のいかにもアラブ的な叙情を押しつけるような音楽にも辟易である。

 トルコは、ホメロスを生んだ古代国家である。狭いボスポラス海峡の向こうまで国土は続き、ブルガリアと接している。しかし、ヨーロッパの中心国、ドイツ、フランスから見たら「最果て」である。そういう取り残された国が、観光客のいかなる幻影を誘うのかは知らないが、本編を見るかぎり、私には、どこかの国にさも似たりといった感じがしましたがね。

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2016年1月11日 (月)

『ブリッジ・オブ・スパイ』──「歴史」が心に染みる(★★★★★)

『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2015年、原題『BRIDGE OF SPIES』)

「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少なかれ限定を受けざるを得ない神話だ。歴史は歴史といふ言葉に支えられた世界であって、歴史といふ存在が、それを支へてゐるのではない」(小林秀雄『ドストエフスキーの生活』)

 スピルバーグがどのように「歴史」を描くかに、ずっと注目してきた私にとって、スピルバーグが、他のいかなる芸術的な監督よりも、映画作りに長けていることは知っている。スピルバーグに駄作はあり得ない。淀川長治が、無名のスピルバーグの『激突』を「しかたなく」観るはめになったが、観ているうちに、「こいつ、映画がわかっている」と舌を巻いたことをどこかに書いていた。

 本作で印象的なのは、国家を超えた個人と個人の友情もさることながら、国家とは何かを問い直していることである。とくに、アメリカなど、雑多な人種の移民によって成り立っている国は、いや、仮に単一民族で構成されていると思われている国であっても、その場所を国家として成り立たせているのは、ルール=憲法である。主人公の弁護士は、そのルールを知り抜き、それを武器として「闘い」を進める──。

 一介の保険専門の弁護士でありながら、その交渉力を見込まれて、ソ連のスパイとして逮捕された男の国選弁護人を任され、ひいては、国家間の「スパイ交換」へと引きずり込まれていく──「不屈の男」。

 一見サエない日曜画家風ながら、冷静沈着、凄腕スパイであることをうかがわせるアベル(マーク・ライアンス)。彼はその国選弁護人、ドノヴァン(トム・ハンクス)に引き合わされて、ごく早いうちに、ドノヴァンが、「不屈の男」であることを見抜く。ゆえに、一見並外れたところがない男を、父から見ているように言われ、その結果、その男の不屈性を認めたという、子供時代のエピソードを、さりげなくドノヴァンに話す。

 よき夫であり父親であるドノヴァンが非凡なのは、ソ連で逮捕されたアメリカ人の(偵察機の)パイロットとの1対1の交換ではなく、同時に、東独で逮捕された、アメリカ人の学生をも加えた、2対1の交換の交渉に持ち込むところである。これは、冒頭の、保険弁護士として、いくつかのものを一つと見るという説明が伏線ともなっている。

 「闘い」の舞台は、ソ連本国ではなく、雪の東ドイツ。ブルーグレーの光の中、「壁」に沿って歩くトム・ハンクスに深く感情移入する──。ただ、国家とか個人とかを描いた映画ではない。上に掲げた小林秀雄の言葉をも思い出させる作品である。

 決して観客を裏切ることのない、トム・ハンクスの信頼の演技。かてて加えて、マーク・ライアンスの、イギリス仕込みの芸術的味わい(かつては、『インティマシー』(2000年)で、オジサン、オバサン版『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の関係を描いてみせた、心に残る役者)。「二十世紀」から遠く離れて、じっと雪のように降ってくる「歴史」について考えてみたくなる映画である。

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2015年12月21日 (月)

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』──悟り顔のマーク・ハミルに星5つ!(★★★★★)

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督、2015年、原題『STAR WARS:THE FORCE AWAKENS』

 

 どうせお祭りである。お祭りの映画は、ほかにもある。たとえば、『007』→残念ながら、おとなオンリー。『ミッション・インポッシブル』→これもおとな向き。『ジュラシック・パーク』→お祭りというには、ちゃち。……ということで、もう、みんなが楽しめて、グッズなどもちょっと買ってみようかという気にさせてくれる映画は、『スター・ウォーズ』しかない。この映画の最大の魅力は宇宙への誘惑である。この点に関して、次回、マット・デイモンの『オデッセイ』がひかえている。風景、キャラクター、乗り物、「用語」など、「はるか彼方の」宇宙へと思いを馳せさせてくれるというところがポイントである。それと、長いシリーズ=サーガへの信頼である。

 本作、悪役がイマイチなど、いろいろ批判はあるだろうが、基本的な魅力をそこなってはいないと思うし、それなりの「更新」もしている。予定シリーズ全9作のうち、残すところ、あと2作となったが、本作では、前作の整理もよく行われて、物語はすっきりと理解しやすいものとなっている。

 主人公が若い女になったのもよいし、「二代目ダースベーダー」のお面取ったら、イケメンというのも今風である。新しいロボット、「オレンジと白」の、BB-8の登場もおもしろい。そして、ストーリーは、ルークを捜すことが柱となる。新しいロボットが持っていた宇宙地図の「部分」と、休止中のR2-D2が持っていた、「部分的」に欠けた「全体」の地図のホログラムを重ね合わせると、ルークの居場所(星)がわかる──。

 屑を拾い集めて売っては「食っている」、ヒロイン、レイが、「フォースに目覚める」──。そして、レイア姫の将軍などの期待のもと、ルークのいる星へ向かう。果たしてそこには、キリスト教の隠者めいた恰好の頭巾付の外套をまとった人物(『薔薇の名前』とか、『ダ・ヴィンチ・コード』でおなじみの)が崖から下を見下ろすように背中を見せて立っており……レイの気配にゆっくり振り向き、頭巾をずらすと……そこには、悟った顔の老いたルーク・スカイウォーカーが……で、映画は終わるが、その表情が実に劇的なのである。タイトル・クレジット、たったそれだけの出演で、ハリソン・フォードの次に名前を連ねている。ハン・ソロなんて、かつては脇だったのに。これは、出演料順か(笑)? あ、マーク・ハミル、『キングズメン』では、悪い博士になってましたけどね(笑)。

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2015年11月16日 (月)

『コードネーム U.N.C.L.E. 』──イケメンふたりのキッチュなスパイもの(★★★★★)

『コードネーム U.N.C.L.E. 』(ガイ・リッチー監督、2015年、原題『THE MAN FROM U.N.C.L.E.』)

 正直申せば(笑)小学生の頃、見ていた記憶のある、『0011ナポレオン・ソロ』。黒髪のシブイオッサンのソロと、金髪マッシュルームカットのクリアキン。スパイものであったことはわかっていたけど、どーゆーオハナシかは見えず、なんとなくテープレコーダーが「消滅する」、『スパイ大作戦』(現『ミッション・インポッシブル』)の方が好みだった。しかし当時、クリアキンは、けっこー人気があった。かわいくて。そのクリアキンを、なんと、190センチ超の、アーミー・ハマーが演じる。このくらいでかいと、フツー、ジャイアント馬場みたいな顔になる(失礼(笑))のだが、顔はあくまで端整。そこが新しい魅力かなと思う。とにかく、ソロ役も、オッサンではなく、32歳イギリス・イケメン正統派のヘンリー・カヴィルで、これを、ガイ・リッチーがリメイクするなら、なにを差し置いても駆けつけなくっちゃであったが、実際、期待を裏切らないできだった。

 とくに、『007』や『M:I』のように、時代を現代にしていないところが、妙におしゃれ。1960年代前半まんまで作るには、けっこー難易度高いと思う。第一、「ハイテクのはじまり」ではあるが、今ほどハイテクでもなく、そこの「考証」が難しいし、そういう時代でも、「胸のすくスパイもの」に作るには技術がいる。しかし、あえてそういう難易度の高い設定にした甲斐はあって、キッチュなおしゃれ、手応えのある物語感、遊びのあるディテールで、久々映画を観る楽しみを味あわせてくれる。

 「ヒロイン」も、よく見かける英米女優ではなく、スウェーデンのアリシア・ヴィカンダーを起用し、身のこなしがハツラツ、かつかわいい。どこかアンナ・カリーナの香りのするコケティッシュが雰囲気を盛り上げている。

 いきなりのオープニングのタイトル・バックからして、「おおーッ!」と思わせるセンスだし、ダニエル・ペンバートンの音楽も心憎い。

 思えば、この時代から、国を超えて協力し合い、「国家を超えた悪」に挑まなければならない事態がはじまったとも言える。あ、そうそう。ヒュー・グラントの「上司」。わけわからんオッサンという感じだが、実年齢からすると、あんなもんだろう(笑)。

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2015年11月12日 (木)

『サヨナラの代わりに』──切り札の見せ方(★★★★★)

『サヨナラの代わりに』(ジョージ・C・ウルフ監督、 2014年、原題『YOU'RE NOT YOU』)

 ホーキング博士を演じた、エディ・レドメインもそうであるが、病気によって普段とは違った体の動かし方をする演技というのは、病弱どころか、その逆の、しなやかな身体あってはじめて核心に迫る演技ができる。それを体現したのが、オリンピック選手レベル(とくに水泳)の運動神経の持ち主のヒラリー・スワンクである。二度のアカデミー賞を取っているのに、わりあい地味な存在で、しかしその演技をじっくり鑑賞すれば、それだけのことは納得させる演技力である。

 そういう「頑強」な身体を、「あえて隠して」の、ALSで全身が麻痺していく役柄である。結果は、患っているのに、どこか美しさ、優雅さが出ている。それでこそ、ほんとうにこの病気で苦しんでいる人々を貶めないということができる。一方、病気の彼女の世話をする、はみ出し野郎(女子ですが(笑))とのコンビは、当然、フランス映画の『最強のふたり』を思い出すが、そのエミー・ロッサムは、子供の頃からオペラを習っていた、最強の歌手であるが、イマイチ舞台にあがると怖じ気づいて歌えないという欠点を持つ、歌手志望の女子大生を演じている。これも、特技の歌をあえて「隠している」。

 物語は、何不自由ない生活のヒラリーは、弁護士でイケメンの夫、自分もピアニストとしてのキャリアを持っていた、と、ステロタイプの設定で始まる。友人たちとのリッチなつきあい──。しかし、どこかわざとらしさがつきまとっていることは、最初からなんとなく感じられる。それが突然の難病の発病によって崩壊していく。原題は、「あなたは、あなたではない」。つまり、「ほんとうのあなたは、もっとちがうはず」という意味が込められている。主人公ヒラリー・スワンクは、病気になることによって、エミー・ロッサムに出会い、ふたりは触れあうことによって、信頼しあい、ほんとうの自分に目覚める。それから、やはり案の定の展開になっていくが、ここでも、ふたりは、互いの演技力によって上質の見せ場を作り出している。

 とくに最後、「ダメ歌手」のエミー・ロッサムが舞台で最高の歌唱を見せるクロージングは鳥肌ものである。確かに涙なくして見られない作ではあるが、「ああこうやって切り札というものは見せるものか」と、そんなふうに感じさせられた。

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2015年10月20日 (火)

『ぼくらの家路』──ドイツの子供(★★★★★)

『ぼくらの家路』(エドワード・ベルガー監督、2013年、原題『JACK』)

 若い女は遊びたい。しかし子供を持ってしまった。安易に考えたのかもしれない。子供はどんどん成長する。子供は、なによりも独立した人格である。幼いうちは母親の意のままにされるが、ある年齢を境に、自我が確立され、子供なりにどう生きるかの選択を迫られることになる。

 育児放棄の母親は今や世界中どこにでもいる。子供は本能的に母の愛を求める。どんな身勝手な母親でも、「ママが世界一すきだよ」と言い、心底そう思っている。ここがせつない。10歳にして6歳の弟の世話をして、まるで「母親」のように忙しく、朝の室内を走り回り、弟の着替えから朝ご飯の準備などをするところから始まる。いつからか、そう「しつけられた」ジャック。弟をお風呂で火傷させてしまったため、養護施設に預けられることになる。待ちに待った夏休み、母は迎えが「2日遅れる」と電話してくる。この2日がジャックは待てず、施設を抜け出し家(アパート)に帰るが鍵がかかっていて入れない。弟が預けられている母の友人の家に弟を迎えにいく。そこから、3日間、母と連絡が取れずに、つまりは、母は携帯に出ず、幼い兄弟のベルリンの街の彷徨が始まる──。

 美しく近代的なベルリンの街。大人たちの無関心。兄弟は、サンダル(やクロックス?まがい)や裸足でなく、ちゃんとヒモで結ぶ靴を履いている。ジャックは弟に靴紐の結び方を教える。なんでもないことのようだが、大切なことである。これで、長い距離をどこへでも歩ける。

 筆記具も重要な役割を果たす。彼らが住むアパートも、日本のように、「汚い狭い、惨め」な感じはない。ドアの前に靴箱があり、その棚にメモ帳と筆記具が置かれている。ジャックはここに、何回か、母への手紙を書き置く。かしゃかしゃと、ボールペンを走らす音、彼の筆跡。走り書きだが、大人びたジャックの筆跡。「ママ、どこにいるの?」「ぼくたち家まで来てるよ」「話したいことがあるんだ」「世界一すきなママへ」。これがフランスの物語なら、誰か、やさしい大人が世話してくれるかもしれない。アメリカ映画なら「奇跡」が起きるかもしれない。日本なら、是枝監督が『誰も知らない』ですでに描いた通り、悲惨な犯罪的状況へと堕ち込んでいくかもしれない。発展途上国なら、そのままストリート・チルドレンへ移行だろうか。

 しかし、ここはドイツである。子供たちはりっぱなドイツ語を話し(って、あたりまえか(笑))、インフラができあがっている。3日目、途方に暮れて家の窓を見ると、明かりがついている。「ママだ!」走っていってドアを叩くと、母親は何食わぬ笑顔で彼らを迎え、まるで何ごともなかったかのように、やさしくしてくれる──。

 翌朝、ジャックは、弟と眠っている母親を見て決意する。「施設へ戻ろう!」確かにそこでは、「母の愛」のようなものは望めない。しかし、ちゃんとした規則と、それなりに気遣ってくれる大人がいる。複数人がいっしょの部屋のベッドも寝具も、まるで中流家庭の子供部屋のように、かわいく清潔そうであった。いっしょに食べる食事も、サラダやパスタなど、子供たちも協力して作る。この施設の食事が、映画中、いちばんまっとうだったのは皮肉である。

 哀しくはある、しかしジャックはこうして、りっぱな人間になっていくような気がする。ジャック役のイヴォ・ピッツカーがすばらしい。早い自立を余儀なくされる少年を、ドキュメンタリーかと見まごうほどの自然さで演じている。

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2015年9月 3日 (木)

『わたしに会うまでの1600キロ 』──細部がテキトー(★★★)

『わたしに会うまでの1600キロ』(ジャン=マルク・ヴァレ監督、2014年、原題『WILD』)

 

 原題は『(The なしの)WILD』。ショーン・ペンが監督した、『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007年)を思い出す。あれも、大自然の中へ「入っていく」映画だった。そこへ行けば、なにか解決できるかのように。人は自然の偉大さ、厳しさに接し、なにかカタルシスのようなものを感じるのだろうか? イヤな自分や過去が「浄化」され、新たな自分に生まれ変わる──と、信じられるのだろうか?

 そんな動機付けなど関係なしに、自然に触れることはおもしろい。ほんとうはそれでいいのではないか? 長いトレイルを制覇した達成感は、興味本位で参加したとしても得られるだろう。

 野生に接した人間を描くのなら、とことん具体的に描いたものが見たい。だが本作は、どこかお手軽感に溢れているし、靴にしろ、荷物にしろリアリティに欠ける。そういうところは、大きな物語を語るためにテキトーにされている。つまり、人間ドラマなのか、自然なのか。べつの映画のネタバレにもなってしまうが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公は、結局野垂れ死ぬ。確か、最後は白骨化した死体が発見される。野生のなかに入っていった人間は負ける。

 本作では、いくら「トレイル」として指定されているコースとはいえ、野生のなかでサバイバルしたヒロインは、「ほんとうの自分を見出す」=野生に勝つ。果たして、野生とは、そんな簡単なものか? もちろん映画のなかで、ヒロインは大変な試練に遭っていたとは思うが。

 リーサ・ウィザースプーン(当時38歳くらいだが(笑))の肉体の感じも、彼女の母親役のローラ・ダーン(当時47歳くらいで、娘役のリーサと10歳も違わないのだが)のきめ細かい演技も、賞賛に値するものだとは思うが、映画作品全体としては、なにが言いたいのかわからないものになっている。それになりより、主人公の得た「さとり」(?)のようなものが、言葉で説明されてしまって、映画的にはよく見えなかったことが残念である。

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余談:Yahoo!レビューのなかに、「年取ったリース・ウィザースプーンは、ウィレム・デフォーに似てきた」と書かれていたものがあり、思わず吹いた。

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