書籍・雑誌

2015年8月 3日 (月)

『このミステリーがひどい! 』──いちばんひどいのは著者(笑)(★)

『このミステリーがひどい!』(小谷野敦著、飛鳥新社、2015年7月30日刊)

 まあ、次から次へと御著書をお出しの小谷野氏であるが、世界史を書こうが日本史を書こうが、「春樹」を書こうが「ミステリー」を書こうが、みんないっしょ。どこを切っても「私小説」(笑)。自分は自分は自分は──。あんたが高校生の時なにを読もうがどーだっていいっての! 私も、「このミステリーがひどい」と思ってたものだから、つい、立ち読みもせずにAmazonで予約してしまって、もういらないと思ったけど、到着してしまった。線もひかずどこも汚さず、すぐBook off行きの箱に入れよう。

 だいたい、本書に取り上げてある「ミステリー」なるものの「おおかた」が、「日本の大衆小説」(って本人も言っているが(笑)、だったら、書名は、「この大衆小説がひどい」にすべきだ)で、外国の「ミステリー」作家は、「誰もが知っている」(「ミステリー」ファンでなくても)作家および作品ばかり、「誰もが知っている」クリスティも幅広い作家で、長い歴史のうちには、さまざまなスタイルの作品があるというのに。しかも、この本には、アントニー・バークリーの名前さえない(笑)。スタンスも取り上げる作家も偏っていて古い。せめて、「世界的大ヒット」の、『その女アレックス』のひどさを指摘してほしかったわあ(笑)。

 ……てなわけで、もうこの著者にはなにも期待しない。どうか勝手に次々と御著書をお出しください。確実なのは、エントロピーだけは増大するでせう(合掌)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月30日 (木)

『新潮 2015年 08 月号』 ──「祝 原田宗典復活!」(★★★★)

『新潮 2015年 08 月号』(新潮社、2015年7月刊)

 今どき文芸誌を金出して買うなどというのは、よほど奇特な人だと思う。なのに、今号、本誌を買ってしまったのは、ひとえに、「あの」原田宗典(250枚一挙掲載)があったからである。「あの」というのは、やはり「クスリで捕まった」という事件の、である。「文学界の田代まさし」まではまだいってないとしても、「あの」田代まさしが、NHKの大河ドラマ準主役で「復活!」ぐらいの衝撃は、一部にはあったと思う。少なくとも私にはあった。確かに本作を読めば、「すごい情報」が書かれていました。川端康成が「ヤクを買っていた」とか、「自衛隊ではしばしば訓練中の事故死があり、テキトーに片付けられている」とか、きわめつけは、「日本人傭兵のハナシ」とか。あ、「逮捕前後」、「塀の中」の様子もね。これは、体験した人でないとなかなかかけない。ここでついでに、「新資料」を付け加えるなら、当方も、文芸誌に小説を何度か発表したことがあり、担当者からしばしば原田氏のことは聞いてました。この担当者は、自殺した作家の佐藤泰志も担当していて、担当中に亡くなったので、まー、佐藤泰志は死に、原田宗典は生き残ったのかな、という思いです。ほかに、ぴんぴんして活躍しているらしい奥泉光なんて作家もおりましたが。作家って、やはり大変なものだと思いますね〜。

 あ、この作品は、はっきり言って、作品になってない。書かれている事実はすごいけど。それだけ。なんか、プルースト風な構造を狙ったのかなとも思える終わり方ですが、いかんせん、「たったの」250枚ですから。しっかし、これを書いて、そのあと、なにを書くんですかね? このバリエーションといったところでしょうか? でも、一方で、ハリウッドで映画化したらおもしろいとも思いました。主演の「原田宗典」役は、ジョン・キューザックで。もう彼しかいないと思いましたが、思ったところでしょうがないけど(笑)。

 ほかの演し物。古井由吉→もうこのジジイのわざとらしい文章は読みたくもない。

 対談「古典=現代を揺らす」(町田康×古川日出男)→お里が知れる。果たして、どんな底本を、ほんとうに古文から訳しているのか? 案外、角田光代のプルーストみたいなしかけではないのか? テキスト・クリティークの視点皆無の無教養さ。

 ……てなてなわけで、今回、原田さんのために、930円払いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月14日 (火)

『病む女はなぜ村上春樹を読むか』──「近過去文壇史」としては読ませるが……(★★★)

『病む女はなぜ村上春樹を読むか』(小谷野敦著、2014年5月刊、KKベストセラーズ刊、「ベスト新書」)

 確かに題名の、「病む女はなぜ村上春樹を読むか」には、直接答えていない。本全体から考えろということか。本書は、導入部はなかなかおもしろい。しかし、ページを追うに従って、著者特有の、「私小説論」になってしまって、村上春樹に対して、「もう、あんたのネタはバレバレなんだから、かっこつけてないで、そろそろ、本格的な私小説(著者、小谷野氏にとっての真の文学(笑))を書いたらどうなんだ?」と提案している本である。私は、小谷野氏とはまったく違う私小説観、文学観を持っているので、氏に賛成はできないのだが、本書で、氏の「主張」はよく理解できた。

 しかし、である。村上春樹がたとえ、「過去に病んだ、フェラチオ好きの女とつきった」経験があり、それにずっと引きずられているとしても、まあ、私小説など書かないだろう。なぜなら、稼げなくなるからだ(笑)。現に小谷野氏も、私小説(小谷野氏にとっての純文学)は売れないと言っているではないか(笑)。では、稼ぎを捨てて、「名声」(ノーベル賞)を取るべく、私小説にチェンジするか? これも、過去に私小説(一般的な意味での)が取った試しなどないのである。小谷野氏は認めてないようであるが、私は小林秀雄派なので、私小説を書くなら、小林の「『告白』を書いたルソー並の覚悟をしてから書きべきである」という意見に与している。

 それはともかく、この薄い新書にして、「フェラチオ」なる言葉が頻繁にでてくるようである(笑)。小谷野氏の村上春樹論のキーワードである。確かに、春樹の小説にはフェラチオ好きの「美女」が登場し、積極的にやってくれる。小谷野氏は、春樹は、それほどフェラチオ好きなのか、と訝っていて、(できることなら)自分もあやかりたいと思っている、フシがないでもない(笑)。

 私は、村上春樹は嫌いだし、「多崎つくる」はAmazonレビューも書いたが、小谷野氏の感想とだいたい同じである。フェラに及んでは、またかよ、である。性行為において、フェラが問題になるのは、玄人の女性の世界である。素人の女性はそういう行為はあまりカンケイない。しかし、アメリカ映画を見るがぎり、アメリカ人は、どんな知識人も、性生活で、フェラを問題にしていることがよくわかる。たとえば、ついこないだ観た、若年性アルツハイマーがテーマの『アリスのままで』でも、大学教授同士の夫婦でも、新婚旅行かなんかの思い出を語り合うシーンで、「ほら、きみがフェラしてくれたね〜」などと言っているのである。それを見て、私は呆れた。アメリカの映画には、仲睦まじいカップルの場面の会話にはよく出てくる。村上春樹は嫌いだが、弁護すると、春樹は、アメリカのハードボイルド小説(主人公がやたらとモテ、美女のサービスも満点。イギリス本格と違って、謎解きは「お飾り程度」(笑)))の影響を強く受け、その展開を土台に、日本の風土で描いているので、唐突にフェラが出てきて不自然なのだ(笑)。もちろん、春樹自身も、経験あるのかもしれないし、あこがれてもいるのだろう。

 ついでに、大江健三郎も、かつて、女性週刊誌に小説を載せたことがあり(どういう内容かは知らない)、それは、自身の著作リストから完全に抹殺しているそうである。という「新資料」も、おまけとして載せておきます(笑)。

 さらなる「おまけ」:『このミステリーがひどい』(私もかねがねそう思っているので)も予約してあります。楽しみです。読んだら、また(書けたら)レビューを書きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月28日 (日)

『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』──フィールドワークの憲法学者

『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(水島朝穂著、2015年4月、岩波書店刊)  

 ある既存の思想があり、それに即して、今の政治がいいとか悪いとかいう著作家もけっこういる。そのなかで、いま、信頼できる著作家とは、フランスの人類学者、エマニュエル・トッドなどの、思想的にはごく普通の良識を持ち、思想的発言は、現実のデータや、具体的事実を提示して分析する学者、著者である。水島朝穂氏もそういったひとりであり、「集団的自衛権」が喧しくなるはるか以前から、政治と憲法を、具体的なデータ、現実的なできごとを丹念に取材しながら分析を続け、平和憲法遵守への提言を行っている。

 本書を読めば、いかに人々が一般市民も、政治家さえも、「集団的自衛権」なるものを、わかってなくて、やいのやいの言っていることがよくわかる。これは、自分は攻撃されていないのに、よそのヤクザに攻撃された隣町の「舎弟」の助っ人に出るようなものと、わざわざ「俗な表現」を使い、著者自らが説明している。

 自国が攻撃されたら、「最小限の武力で守る」、これが、従来の自衛隊の存在理由であり、それでも、違憲か合憲かが争われてきた。著者は当然、それさえ否定する立場である。なぜなら、他国から攻撃やテロは、暴力が暴力を生むだけであり、サッチャーが決断したフォークランド紛争で、イギリス、アルゼンチン合わせて、無駄に1000人の死者を出してしまった「戦争」が起こりうることもあるからである。あの「事件」は、本来、イギリスが話し合いに応じたら、回避できたとされる。それをサッチャーは不人気を回復するため、ヒーローとなったのである。同様の事態が、いま、日本の安倍政権にも起こりうる可能性を与えている。

 安倍政権は、ぎりぎり合憲としてきた「最小限度の自国を守る武力」=個別的自衛権をも踏みにじり、攻撃されてもいないのに、戦争ゲームに参加する道を歩み出そうとしている。

 そして、自衛隊など「軍隊」が教えられる戦闘術=銃剣などで確実に人を殺す、と、警察官が教えられる武術=犯人逮捕のため、脚などを撃つ武術の違い、地雷の構造なども、具体的な写真(水島自身が撮影している)も載せて、テッテイ的に「リアル」に説明されている。現実あっての法律であることが、とことんわかるように説明されている。それが「ライブ」のひとつの意味であり、リアルタイムで、ブログでフォローしていく、それがもうひとつの意味である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 6日 (土)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』──まがいものにもほどがある(★)

角田光代、芳川泰久編訳『失われた時を求めて 全一冊』 (新潮モダン・クラシックス、2015年5月29日刊)

 本書の表紙を見るかぎりどこにも、「縮約」などという言葉は使われていない。まるで、「まっとうな」『失われた時を求めて』の訳本のようである。なるほど、「編訳」には、原テキストがある程度「編集」されていることが窺われる。「あとがき」を読むと、角田光代の「大学時代のフランス語の先生」であった芳川泰久が、原テキストを適当に編集して訳し、それを角田に渡して、角田は「リライト」したようである。まあ、リライトもまた文学であるとするなら(ボルヘスのように)、本書も「作品」であるといってもいいが、それには、せめて題名は、『角田光代の「失われた時を求めて」』とするべきだ。そして、それは、角田がプルーストのテキストにインスパイアされて書いた「べつの小説」である。それが、本商品により近い内容であると思われる。

 本書の企画が来たとき、角田は「とても無理だと思った」とある。しかし、最終的には編集者らに巻き込まれ、「了解しました」と言ってしまったとある。ま、たいてい、大それたものを手がけるときは、そういうものである(笑)。また、編訳者芳川は、角田がリライトした原稿を見て感心したとある。「私」が「ぼく」になっていたからである(笑)。

 プルーストの『失われた時を求めて』は、1840年代から1915年まで、75年間を、200人以上の登場人物を鏤めて書かれた、英訳で4000ページ、約150万語の小説だが、彼ははじめ、評論を書こうとしていた。悩んだすえに、小説の形を選んだのである。ナボコフに言わせれば、「若い頃、プルーストはアンリ・ベルグソンの哲学を学んだ。時間の流れに関するプルーストの根本的考えは、個性の不断の発展を持続という観念でとらえ、われわれの意識化の心のまぎれもない豊かさを回収しうるとすれば、直観と記憶と無意識的な連想によるしかないとするところにある」

 「プルーストはプリズムみたいだ。彼、ないしそれの唯一の目的は屈折させること、そして屈折させることによって、回想のうちに一つの世界を再創造することである」

「フランスの批評家アルノー・ダンディユーがいったように、過去の喚起であって、過去の描写ではない。ダンディユーはつづけていっている、この過去の喚起を可能にするのは、絶妙に選びとった数々の瞬間を照らし出し、それを一連の例証、イメージと化すことによってだと。まさに、厖大な小説全巻は、あたかも──のようにという言葉を軸に回転する一つの拡大された比喩にほかならない、これがダンディユーの結論である」(ウラジミール・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1992年刊)

 プルーストが作品として構想し読者に期待したものは、この原稿の実質的な「長さ」を、まさに、話者ととも共有して、「時間のプリズム」を眺めること。「ストーリー」ではない。ゆえに、本書のような、お手軽ダイジェストを読み通しても、プルーストを読んだことにはならないし、なんの意味もない。むしろ、原書か、あるいは、せめて、今日本語で読める最良の訳書、井上究一郎訳(筑摩書房)を、たとえ中断してもいいから、読むことである。ほかに、集英社版、岩波文庫版があるが、井上訳がいちばん、プルーストの文体に沿っているように思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年4月14日 (火)

佐藤優著『超したたか勉強術』──いま、あなたに必要なサバイバル

『超したたか勉強術』(佐藤優著、朝日新書、2015年4月刊)

 佐藤優の著作は実に多く、何かが少しずつ重複しているので、昔読んで、この著者の「思想」はわかっていると思うかもしれない。しかし、氏は氏なりにアップデートしている。そして、この著者の専門は、「宗教学」だし、外務省で、インテリジェンスの技術を身につけているし、ロシアにも長年赴任していた。こういう経歴から、氏がなにに強いかがわかるだろう。確かに氏の思い込みは強く、その「濃さ」(顔も含めて(笑))に辟易するムキもあるだろう。しかし本書は、今がサバイバルの必要な時期で、しかもそのサバイバルのため勉強術が公開されている。いま必要な勉強術とは、古典などを読むベーシックな基礎的勉強と、ネット、新聞、雑誌などから、ジャーナルな情報を選択、読み解き、この二つから、自分の頭で考えることだろう。氏はそれを、「思考の鋳型」を鍛えると言っているが、ワタシ的には、「フレーム」を作ることではないかと思う。

 本書がすごいのは、勉強術を公開しつつ、「シャルリー・エブド襲撃事件」と、「イスラム国日本人人質殺害事件」を解析しているところである。この二つの事件に関しては、『現代思想』誌などが特集を組み、多くの識者が見解を寄せているが、具体的な事実を並べて解析している手腕は、やはり、インテリジェンス活動をしていた氏の分析が最も納得させられる。

 氏は、神学出身のプロテスタント教徒であるし、完全なるリベラルでも右翼でもない。一定の固定した立場にあることはある。そのあたりを斟酌しつつ学べば、本書は非常に価値のある本である。

Img_3577

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月 1日 (日)

『その女アレックス』(Kindle版)──スジだけでできた小説(★★)

(ネタバレ注意──スジだけでできているので、なにか語ろうとすると、どうしてもネタバレにならざるを得ない(苦笑))

 巷で話題になっているから、今朝の5時頃Kindle版ダウンロード。大急ぎで「ページを繰り」、7時頃読了。「思わぬ展開」というので関心を持ったが、「想定以下」の「ありがちな」展開であった。

 日本語翻訳で読むかぎり、この小説には、欧米文お約束の代名詞が出てこない。原文を見てないので、そこは訳者の方が、そのように変えたのかもしれないが、とにかく、「アレックス」でずーっと通すので、「その女」は、もしかして、「男」かもしれないと予想したが、そうではなかった(笑)。

 アレックスという名の看護師が誘拐され、暴力をふるわれ(レイプなし)、座ることもできないような箱に監禁される。その箱は地上から2メートルか、吊り下げられている。一方で、画家のロートレックを彷彿とさせるような低身長の刑事がこの事件を追う。どうして誘拐がわかったかと言えば、「目撃者の通報」である。パリ警視庁はてんやわんやの大騒動(のように見える)。この刑事も、妻を誘拐され殺された経験があり(なんたる偶然(笑)!)心に傷を負っている。この二人の「主人公」の章を、代わる代わるに展開させる。

 アレックスを誘拐した犯人は、なんで誘拐したかと言えば、息子を殺された復讐である。その息子は軽度(?)の知的障害があった。しかしその「誘拐犯」は早々に死に、彼の携帯に残されたアレックスの写真や、電話をかけた記録などから、警察は、被害者の位置を探っていく。

 だが、被害者は逃亡に成功する。アレックスは、「なぜわたしなの?」などと思うが、連続殺人を犯している。しかし、それは、少女時代に性的虐待を受けていた兄(異母か異父)によって、強制売春させられた相手たちであった──。こういった事実は、しだいにわかってくることで、冒頭、少なくとも第1章では伏せられている。こういう、その人の意識を支配せずにはいられないような事実を伏せ、その人物の内面が描けるだろうか? なるほど本作は、スジだけでできているが、三流週刊誌の手記程度の内面描写はある。それを、以上の事実抜きでやるのである。完全なる「ズル」、破綻である。それ以外にも、ミステリーの「お約束」はまったく守られていない。もしかしたら、本作はミステリーではないかもしれない。ただの猟奇小説である。作者が最も書きたかったのは、アレックスが、兄に売春を強要され、その客の一人から、膣に硫酸を流し込まれ、その内部の組織が破壊されて、犯罪性を隠すため、かろうじて、看護師(アレックスも看護師)の母の稚拙な小細工(針金で通す)によって、尿道だけは確保したという事実だろう。現実にこのような処置でまともに生きていられるのかどうか、わからない。ほかにも、かなり暴行を受けてもそれほどの致命傷になっていないような描写もある。

 そのアレックスも死ぬ。一見、自殺だが、はて、と、カミーユ警部(ロートレック風の)は探る。

 その兄がとんでもないワルなのであった──。そういうストーリーであるが、伝統的な英国ミステリーの豊かさを支えているような街や自然、人物の描写は皆無である。謎解きも、謎もない。ということは、サスペンスもないから、やはり推理小説とは言えず、スジだけをどんどん展開させたものである。

 ある意味、アレックスが作中で愛読しているデュラスとか、カミュやクンデラ(チェコ出身だが)など、おフランス小説は、シンプルな文章が多いので、まあ、おフランス人にとって、小説とはこういったものなのかも。本書の著者は、自分が影響を受けた作家を巻末に並べているが、わざわざこんなふうにするのは、自分はほんとうは、まっとうな作家なのだと言っているのか(笑)? そのリストのなかにはプルーストもある。こういう三流週刊誌の手記のような小説の、いったいどこに、プルーストの影響が見られるのだろう? 

 「公募ガイド」で小説の書き方指南をされている若桜木センセイ流に言えば、「視点が混乱している」ので、公募小説の賞の最終候補に残ることは難しいかも……(笑)。主人公、アレックス、カミーユ刑事の、章ごとに変わる視点はともかく、ときどき、そのほかの人物の視点も入り混じる。視点の統一など、おフランス人にとってはどうでもいいのかもしれない。それが違っているとも言えないのが文学であるが(笑)。

 このテのハナシなら、松本清張でしょう、やはり。こんなものに感心して、「ストーリーは言うな!」などと叫んでいる人の頭の中はいったいどーなっているのだろう? ほんとうに背筋が寒くなるものを求めるなら、イーヴリン・ウォーの『囁きの園』(訳者によって、邦題はいろいろだが、この題名の翻訳がいちばんよい)をおすすめします。あまりの展開に思わず十字を切る(キリスト教徒でなくても)こと請け合い(笑)。しかも格調高い文学!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月14日 (日)

『アベノミクス批判──四本の矢を折る』──極右政治家(海外メディアの表現)安倍晋三の胡散臭さを実証的に分析(★★★★★)

アベノミクス批判──四本の矢を折る』(伊東光晴著、2014年7月、岩波書店刊)

 伊東光晴は、『ケインズ』(岩波新書)の翻訳もあり、長きにわたる雑誌『世界』の論客であるが、そのためか、「岩波文化を代表する」などと形容されることもあるようだ。「岩波文化の凋落」などと、本書を批判しているレビュアーもあるが、だいたい、「岩波文化」などと言うこと自体、歳がわかる(笑)。かつてそのようなものがあったとしても、そのようなものは、とっくに凋落していて、なにも本書とは関係がない。

 まっとうな(資料を駆使して、科学的に分析するスタイルの)経済学者ではあるが、本書は、経済学ばかりの本ではない。「アベノミクス」という、知識のない庶民、あるいは、あってもテキトーな政治家向けの、便利な言葉の胡散臭さを、とくに、「アベノミクスの三本の矢」(金融政策、国土強靱化政策、成長政策)という経済政策がいかに「不可能か」を実証的に分析しかつ、「隠された四本目の矢」をあぶり出すものである。四本目の矢というのは、ズバリ、憲法改正である。

 氏に言わせると、自民党内の右派は、中曽根、小泉、安倍。リベラルは、田中角栄、池田勇人、大平正芳である。そして、小泉は、「戦術上靖国参拝を利用した」。しかし、安倍は、心から靖国に祀られているA級戦犯を尊敬しているゆえに、靖国に参拝した。そういうことをありがたがる右翼の年寄りは、どんどん死んでいくが、だが、大丈夫、ネット界、出版界には、新しい右翼が育っている(合掌)。

 いま、2014年12月14日の、衆議院選挙の投票が終わったところであるが、いったい、どーなるんでしょーかね〜? これからの日本は。なお、日本の株式市場は、海外の市場に比べて特異なもので、海外投資家のバトルの場と化しているようだ。つまり、彼らの動きによって株価が上がったり下がったりする。べつに政権の政策とは、ずっと以前から、関係ないそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月 8日 (月)

『フランクフルト学派』──二流詩人にして三流学者の私的エッセイ(★)

『フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(細見和之著、2014年10月刊、中公新書)

 著者は、「アウシュヴィッツ以後も」、マラルメ風言葉遊びのような、ヘナチョコ詩を書いている詩人である。そっちはあまり注目されてないが、一応学者でもあるので、こういう著書の依頼が来たと思われる。本書以前に、講談社の現代思想シリーズで、『アドルノ』の巻を担当している。

 本書の題名を見て、著者名に躊躇したものの、題名で即買いした。買って損したとは思わない。現代思想にとって、重要な、思想家を多数輩出した「フランクフルト大学」が生み出した学者たちについて、どんな言及がなされているか、無関心ではいられないからだ。本書は、「ですます」調によって、「無知なものに語る」というスタイルなってしまっていて、しかも、著者の「考え」が紛れ込んでいる。こうして書物は、「入門書」としては百害あって一利なしである。

 ちなみに、「フランクフルト学派」、最重要の思想家、アドルノについて、真のこのような書を執筆にするにふさわしいと思われる三島憲一は、このように書いている。

「(重要な著書『啓蒙の弁証法』において)市民的な主体は他者への支配、自然への支配、自己の自然への支配によってなりたっていることが、オデュッセウスの昔に遡って叙述されている。それはまた自然の中に人間世界を読み込んでいた神話暴力が実は理性の誕生であったことと裏腹である。神話はたしかに世界的な啓蒙過程によって消失していったが、逆に神話にあった野蛮は現在理性の姿をとって回帰している。現在では学問はいっさいの自己反省能力を喪失した管理の手段でしかないし、芸術は異なった世界への超越という機能を見失ってしまったし、されに倫理はもはや根拠づけができなくなっている」

「特殊性を一般性に包括する概念によって非同一的なるものは損壊されざるをえない」

(『現代思想 ピープル101』新書館、1994年刊)。

つまり、著者も、ここで批判されている「管理の手段の学問」をしている学者にすぎないことをいみじくも露呈している。

 新書は、最近、伝統ある新書でも、玉石混交の、「石」の比率が高すぎるようである。本書などもその一例である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月19日 (水)

奥泉光『東京自叙伝』──鈴木博之『東京の地霊』をオススメします

『東京自叙伝』(奥泉光著、2014年5月、集英社刊)

 それほど多くない読者を、内輪のウケねらいだけでお手軽に、しかし、「大作に見せかけるべく」長々と書き、厚い本にしているのは、高橋源一郎と同じ「純文学作法」である。私も、「地霊」には関心があったので、その地霊に東京の歴史を語らせると、なにかの解説にあったので、本書をすぐ求めて読んだ。確信犯的な、語りは相変わらずであるが、レビュアーのどなたかも書いていたとおり、題名と内容との齟齬に苦笑い。

 だいたい、地霊と言いながら、人物だの、動物だの、「語り手」=「視点」をどんどん変えて、空疎なおしゃべりを連ねているだけ。エンターテインメント系の新人賞なら1次も通らないのでは(笑)? こんなにお手軽に長編小説ができてしまうのか、の見本である。しかも、ちょっと内容があるみたいにするために「3.11」に絡めたりするのも、まったく確信犯的。

 参考文献を見ると、「地霊」について、きわめて示唆的な本、鈴木博之著『東京の地霊』が抜けていた。本作を見るかぎり、読んだ形跡はない。そもそも地霊の概念とは、英国十八世紀のものらしい。ラテン語では、Genius loki(ゲニウス・ロキ)。この概念を踏まえつつ、東京という土地の歴史的、政治的「変遷」を、「具体的に」表出した『東京の地霊』は、静かな衝撃を読者に与えずにはおかない。真に地霊を語るにふさわしいものとなっている。

たとえフィクションでも、なんらかの意味で、『東京の地霊』を意識し得なかったら、それは著者の勉強不足であろう。

 谷崎賞を与えられた『東京自叙伝』であるが、いまの日本の純文学界は、選考委員の方も大したことないので、なんの意味があるのかわからない。読者は正直だから、そう売れてない(Amazonレビュー数がそう多くないにもひとつの目安)ようなのを見ると、お金を払う価値はないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧