映画レビュー

2020年5月10日 (日)

【昔のレビューをもう一度】『君の名前で僕を呼んで 』──愛とは教養である

●愛とは、男と男の愛しかない。

『君の名前で僕を呼んで 』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』)2018年5月1日 23時27分

愛とは教養である。教養がないと、「モーリス」映画を期待して外されたと悪態をついたり、ストーリーや演出の起伏がないなどと、自らのバカを露呈することになる(笑)。
 主人公の17歳の少年は、実は(当時)22歳の、ショーシャ・ローナン男版のような、ニューヨーク生まれのアメリカ人俳優が扮している。巧まずして、こういう「深さ」は出せないだろう。北イタリアの自然に富んだ別荘地が舞台ながら、制作側は、自然に、任すわけにはいかない。具体的に所在地を設定せず、「こんなことがありました」的な展開である。
 古代ローマ文明研究者の大学教授の屋敷に、「例年のように」大学院生が、おそらくは、教授を補佐しつつ、自らの論文を書くためにやってくる。それは毎年のことなので、教授の17歳の息子やガールフレンドたちは、「今年はどんなやつかな?」的な興味しかない。それが……
 車から降りた彼は、身長190センチ超、だけど、ごつさは全然なくて、遠目でもハンサムとわかる。しかも、教授がしかけた、母の出すアプリコット・ジュースを飲みながらの、「第一の難問」。アプリコットの語源をも、難なく自説を披露して、教授のお試しを、突破する。少年は少年で、バッハなど、クラシックを編曲する趣味(?)を持っている。ピアノも、オリジナルにすばらしく弾ける。母とは、フランス語で話している。ということは、母親はフランス人か? ガールフレンドともフランス語で話していて、一家は英語で話している。お手伝いさんや下男(まー、差別語ですかね(笑))などとは、イタリア語で話す。
 すると、この一家はユダヤ系フランス人なのかもしれない。だいたい、教授の名字のパールマンは、ユダヤ系の名字だ。やってきた、アメリカ人の青年も、ユダヤ系である。
 頭脳明晰の、オリヴァー(アーミー・ハマー)だからこそ、「最高の愛の交換」を思いつく。「きみの名前でぼくを呼んで。ぼくの名前できみを呼ぶから」。これこそ、時間にも社会的条件にも打ち勝つことのできる最高の愛の証である。よしや、この二人に「ハッピーエンド」があるとして、それは、途中でパールマン家にやってくる、年老いたゲイ夫婦のお客のようになるのが関の山。かくも、時間は残酷である。美しいまま、美しい時間を凍結するなら……「きみの名前でぼくを呼んで」である。だから、(「オリヴァーの帰国」で終わってもいいはずだった)物語は延々と続き(このあたりが、フツーの映画しか知らないか観客は冗長に感じてくる)、アメリカへ帰ったオリヴァーから突然電話がかかってくる。それは、不自然でもないように、ユダヤ特有の、「ハヌカ祭」の日に設定されている。オリヴァーはそこで、自分の婚約を告げる。けれど同時に、少年への愛も伝える。お互いは、自分の名前で相手を呼び合う。これこそ、時間にも社会の規制にも打ち勝ち、いつでも二人の時間を取り戻すことができる術(すべ)なのだ。
こうした「映像の文学」に、通俗的なドラマチックな展開(バカが、「母親とできるとか」と言っていたが(笑)。そういう意味では、ブ男、ダスティン・ホフマンの『卒業』は、通俗である(笑))を求めても意味がない。しかも、美として表現されるためには、演じる男優たちの洗練された演技術、かつ、美しい肉体が必要である。とくに、少年を魅了する、「おとなな」男の美は、今役者としてノリにノッている、アーミー・ハマーあってのものだろう。彼は、今、ブロードウェイの舞台に立っている。ぜひ、生(なま)アーミーを見るために、ニューヨークへ行きたいものである(笑)。




2020年5月 1日 (金)

『砂の惑星』──変態向き「おこもり」SF

『砂の惑星』( デヴィッド・リンチ監督、1984年、原題『DUNE』)

 AmazonPrimeレンタル(199円)で見ました。コロナ時代となって、なんかもういっぺん見てみようかな、という作品を見ています。36年前の作品。今から見ても超イケメンのカイル・マクラクランと、なかなかかわいいスティングの対決が、クライマックスとして残されています。それにしても、ゆるい、長い、重い、暗い、古くさい(笑)。結局、宇宙の星の話でも、物語の基礎は、イタリアあたりの中世の貴族たちの権力争いなんですね。本作の特徴は、砂漠の惑星の奥深い場所に、スパイスが繁茂していて、そのスパイスは、人間の意識を変える力があって、それが夢として現れたりする──といえば、『惑星ソラリス』を思い浮かべるが、ああいう完全に「未来的な」透明感はなくて、悪者とよい者が、戦うだけ。それでも見るに耐えるのは、きっちりとした構図のおかげ。ワンカット、ワンカットが妙に正確なんです。こういう映画では、それは欠点になったりするんですが……(笑)。
 FaceBookの宣伝で、「マスタークラス」(専門家に習う講座、各界の専門家が、演技、料理、インテリアデザイン、小説作法、などなどを教えている)というのがしょっちゅう流れてきて、デヴィッド・リンチの映画作りのクラスもあり、それで、本作を再見する気になったのだが、ひゃー、こんな映画でしたか〜……という感じ。さすがに教えるだけあって、基礎はきっちりしてるんですが。キャストも、カイル、スティングをはじめ、ポール・スチュアート、シルバーナ・マンガーナ、ヴァージニア・マドセン、ショーン・ヤング(超美人だったな〜)などがごっちゃり出ている。
 テーマは……もはやズレてしまったという感じですかね(笑)。しかし、どこか「コロナっぽい」んです。この重さ、暗さ、どうしようもなさ、残酷さ、未来がどこにもないようなSF(笑)。さすがデヴィッド・リンチ。「処女作」(?)の『イレイザーヘッド』のテイストが残っているんです。妙に生理的という。そう、観念世界を、具体的生理に移し替えるんです。つまり、変態(爆)。

 

 

 

2020年4月24日 (金)

【昔のレビューをもう一度】『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』──帝国主義者が魅力的では困る(笑)

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』( ジョー・ライト監督、2017年、原題『DARKEST HOUR』 
2018年4月5日 0時08分

かつて日本には「バカヤロー」って言って国会を解散した首相がいたが、なんかそんなヒトを思い出したナ。「貧乏人は麦を食え」って言った首相もいた。「天の声はヘンな声」と言った首相もいた。チャーチルも、逆説がお得意の名物首相。しかし、なんで、わざわざ、特殊メイクをしてまで、オールドマンが演じなければならないわけ? ほかにチャーチルに似たような演技派俳優はいくらもいそうなイギリスである。確かにオールドマンは魅力的な男である。評価の高い観客は、彼が演じてると思うだけでもうカンドーなのだろう。そう、私もオールドマンのファンだから、確かにへんなジジイにしては魅力的だった。しかし、それが困るのだ。チャーチルは、「インド人は嫌い」と言って、当時イギリスの植民地だったインド、ベンガル地区への食糧供給を拒否し続け、300万人を餓死させたと言われている。ダンケルクで自国の兵士何十万かは救ったそうだが。映画でも、嫌われた理由を、首相になる前に、作戦の失敗によって何百万の若者を無駄に死に追いやったと糾弾されている。

 「どんな犠牲を払おうとも国を救うことが重要だ」という、映画でもたびたび出てきたチャーチルの考えだが、アジア大西洋戦争時に、昭和天皇と東条英機以下の軍部もそう言っていた。少しの違いは、イギリスは侵略される側だったが、日本は侵略する側だった。戦況は悪いのに、よいように見せかけたというのも、似たような手法である。だいたい、庶民の考えを知ろうと、たまたま乗った地下鉄の一両に、あんなに意見ぴったりの人々が乗っているだろうか?

 監督のジョー・ライトは、これまで、歴史的好編を製作してきたが、今回の作品は、脚本にもダレた点があり、寝落ちしてしまった(笑)。音楽、とくに、演説で会場の意見を転換させたチャーチルが、「紙吹雪」のなか颯爽と(?)去っていくエンディングの音楽は劇的でなかなかよかった。


 

2020年4月21日 (火)

【昔のレビューをもう一度】『マリー・アントワネット』──主役はヴェルサイユ

●新型コロナに感染してロンドン病院に入院中の、かつてのミューズ、マリアンヌ・フェイスフルが、マリア・テレジアの役で出ている。
 フェイスフルもヴェルサイユも、サバイバルを祈る!

『マリー・アントワネット』( ソフィア・コッポラ監督、2006年、原題『MARIE ANTOINETTE』)

 ソフィア・コッポラの映画というのは、『バージン・スイサイズ』でもそうだが、劇的なことを題材に取りながら、彼女の映画の中では「何も起こらない」。マリー・アントワネットをめぐる歴史的できごとを期待して観にいくと、はぐらかされたような気分になる。
 ソフィア・コッポラの関心は歴史にはなく、常に、「一人の女の子の胸のうち」にある。あの、アントワネットさえ、十代の女の子にすぎなかった……。そのような視点から映画を撮っている。たとえ、演出が「ポップ」であれ、もしかしたら、当時のアントワネットの胸の内はあんなふうだったかもしれない。彼女は、史実の中の人物に、今の女の子との共通点を探っている。
 だから、本作では、断頭台へ消えるアントワネットは描かれていない(それを観たい向きは、ヒラリー・スワンクの出る『マリー・アントワネットの首飾り』を観てください(笑))。しかし、誰でも知っているあの運命を意識して本作を観れば、やはり心を打つ。
 話題になった、宮廷内の衣装やお菓子のポップなゴージャスさもさることながら、なによりも本作では、あの「観光地」ヴェルサイユ宮殿が、周囲の別館、庭園ともに、まるで魔法をかけられたように生き生きと命を吹き返しているのが見られる。それもまた、映画の価値である。


 

2020年4月16日 (木)

【昔のレビューをもう一度】『さよなら、僕のマンハッタン』──ニューヨークに捧ぐ

◎なぜか、ザ・タイガースの『色つきの女でいてくれよ』(阿久悠作詞、森本太郎作曲)が口をついて出る。「さよならぼくの美少女よ、きりきり舞いの美少女よ」と始まるこの曲は、べつの女性歌手のカバーで、わがライブラリに入っている。

『さよなら、僕のマンハッタン』( マーク・ウェブ監督、2017年、原題『THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK』 )2018年4月16日 5時53分

マンハッタンの街で、文学作品からの引用が溢れ、スノッブたちの会話が乱れ、男女の思惑が入り乱れ……とくれば、ウディ・アレンの独壇場だろうが、本作は、まさにその通りなのだが、どこか激しい清々しさを感じさせる。それは、ニューヨークの街の隅々、どんな小さなものさえ美しく見せるカメラワークと、大学を出たばかりで、実家を出て住み始めたトーマスの、純真さ、彼を演じるカラム・ターナーの、生硬さが滲む初々しい容姿と演技も大いに影響しているだろう。
 製作総指揮の、ジェフ・ブリッジスが、キーパーソンの覆面作家を演じ、物語を不思議な魅力で彩っていく──。
 ニューヨークだから、すべてがさまになる。ニューヨークだから、「そういう物語」も信じられる。今さらサイモンとガーファンクルでもないだろうが、その曲が原題(「The Only Living Boy In New York」)であり、覆面作家が書いている作品もまさに同タイトルなのである。
 あり得ないような物語が、きっちりハマった演技派たちによってリアルさを帯びていく。トーマスの父親のピアース・ブロスナン、母親のシンシア・ニクソン、引っ越して来た謎の隣人のジェフ・ブリッジス、父の愛人の、ケイト・ベッキンセール。それぞれの俳優たちは、以前はまったく違う映画でスターであったが、今はひたすら、初な青年を盛りたてる。
 父は出版社を経営し、恵まれた環境にあった作家志望の青年だが、コネを拒否して自立の道を探る──。このあたり、日本とは大違いである(笑)。だから、文学が生きている。エズラ・パウンドもイエイツも、引用されても重みがある。
 あー、ニューヨークが呼んでいる!


 

2020年4月13日 (月)

『何かいいことないか子猫チャン』──コロナ時代の「おうち」でのけぞろう!

『何かいいことないか子猫チャン』(クライヴ・ドナー監督、ウディ・アレン脚本、1965年、原題『WHAT'S NEW, PUSSYCAT?』

 ウディ・アレンのレビュー作にして出世作。監督はやってなくて、脚本と出演だけだが、すでにして、「フツーのオバカ映画」(そんなもんがあるのか?(笑))と違う! 知的にして、毒ももりもり、しかも、大胆! 台詞の大胆さは、いまのウディのまんま。これほどキレれば、すぐに巨匠!を実践してしまった。映画の中では、サエないストリップ劇場の裏方の青年(自身の生い立ちまんまですかね)で、眼鏡、不細工、小柄で、モテオーラなし(笑)。反対に、主役(といっても、ほんとうの主役は、若き(!)ピーター・セラーズ。この頃の毒々しさは、ピカイチ!ぜひともオスカー俳優に名をつらねてほしかったが、無冠で終わった惜しい俳優。『ピンクパンサー』は、もっと老けてからだし)、超イケメンの若きピーター・オトゥール。ファッション誌の編集長だが、モテて困る(もちろん、本人も「据え膳」を喰いまくっているのだが(笑))悩みで、セラーズのセラピーを訪れる。かわいい恋人のキャロル(若きロミー・シュナイダー(!))に結婚を迫られているし。
 本作、この精神科医の城のような家の、夫婦喧嘩から始まるが、この喧嘩の台詞がすごくて、すでにアレン的。デブの妻が、「あんたゆうべはどこの女と浮気してたのよ!その人私より美人?」と問い詰めると、「どんな女だっておまえより美人だ! オレだっておまえより美人だ」と返す。ついでに、「おまえなんか、結婚した瞬間から嫌いだった!」しかし、この妻も、スラップスティックコメディーの展開のなかで、「味方」になっていく筋書きがちゃんとしている。
 「ぼくって、光のかげんによってハンサムに見えるらしいんです」と悩みを打ち明ける超イケメンのオトゥールが白々しくて笑える。それを、出会う女たちがくりかえす。「あなたって、光のかげんによってハンサムに見えるのね」と。アラン・ドロンよりも品があって、ブラピより体格もいいオトゥール。真っ青な湖のような眼で、来る女来る女のかわいこちゃん(プシーキャット)をじっと見つめる。まー、よくもこれだけ美人を集めたと思えるほど、出る女出る女美人ばかり。それが、惜しげもなくキスシーン、ラブシーンをやりまくる。とくに、精神科医のセラピーに来る女たちは、特別ゲストのお色気過剰、ウルスラ・アンドレスもいて、「わたし、性の衝動が止められなくて」とオトゥールに言い寄る。一方、恋人、キャロルのロミー・シュナイダーは、両親もパリにやってきて、「はよ、結婚せいよ」とせかす。ま、いろいろテンヤワンヤはあれど、二人は、無事、パリ市役所で結婚する。めでたしめでたし……とはいかず、その受付の若き女性に、つい、オトゥールは、「What's new Pussycat?」と口走る……(笑)。
 60年代だからできた、性的大胆さと行動の奔放さ! あー、そんな時代があったんだなー、と、コロナ時代の「おうち(At home)」でのけぞろうゼ!

Koneko



2020年4月 5日 (日)

【昔のレビューをもう一度】『オール・ユー・ニード・イズ・キル』──コロナ時代のサバイバル法を先取り?

◎『クワイエット・プレイス』のエミリー・ブラントが、トム・クルーズを鍛える女兵士として登場。日本のライトノベル作家、桜坂洋原作。発想がすばらしい。

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(ダグ・ライマン監督、2014年、原題『EDGE OF TOMORROW/ALL YOU NEED IS KILL/LIVE DIE REPEAT』)

このところ、SF的な大がかりな映画が目白押しだが、本作は、紋切り型のヒーローストリーを辿っただけの映画とは違った。生と死がループになっているという発想も新鮮だし、くりかえしのなかで、しだいに主人公が能力を高めていくというストーリーも、ゲームからの影響かもしれなが、「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)をどこか思わせる志の高さも匂う。
 こういうハイSFチック(私の造語です(笑))なストーリーを、トム・クルーズの的確な演技がリアルな深みのあるものにしている。いやー、よく考えてみたら、大した役者だ。かなり長い間スターの座にあるが、落ち目感がない。かといって、色を売っていたわけでも、わざとらしい「演技派」を見せつけるようなシリアスなドラマに出るわけでもない。ひたすら、フットワークも軽く、SF世界を闊歩してみせる。
 対するエミリー・ブラントも、女性らしさを残しながら、色を売らない演技で状況の厳しさを表出する。何度も生き返っては、軍人のエミリーが腕立て伏せをしているところに会いに行く。エミリーは床に這いつくばったまましばらく動かず、なにをしているのかと思うと、カメラが近づき、腕立て伏せ状態で止まっているのがわかる。トムが来たのでおきあがり、「Yes!」とこれ以上キリッとできないほどしっかりした声でいい、「What do you want?」。「なにか用?」
この場面は何度もくりかえされる。くりかえされるたびに、エミリーのきっぱりした態度が磨かれる。
 そして、その態度に対して、トムは、最後の場面だけ、厳しい兵士の表情を晴れやかな笑顔に変えていく……。そういう終わりの映画。
 トム・クルーズは、一時「難読症」という噂がたったが、これまで出てきたハズレのない作品をみると、ディカプリオ、ジョニー・デップ、ブラッド・ピットといった連中のなかでは、誰よりも脚本を読む力があるように思う。

 アメリカでの題名は、『EDGE OF TOMORROW』だが、この、日本のラノベの題(?)が、内容を的確に表していて秀逸だと思う。


 

【昔のレビューをもう一度】『クワイエット・プレイス』 ──ウイルス相手の戦いに似ている

◎見えない敵がどこからともなく襲ってくる未来。生き残りをかけて一家の主婦(エミリー・ブラント)が戦い抜く。本作の敵は、宇宙人のようだけど、新型コロナは地球を席巻しつつある今、この映画を思い出した。

『クワイエット・プレイス』((ジョン・クラシンスキー監督、2018年、原題『A QUIET PLACE』)

ホラー映画に叫びは付き物だが、本作はその「必需品」が初めから禁じられている。どんなに叫びたい時でも、声をあげたら、地球を侵略している何者かに即刻襲いかかられ食われてしまう──。
 アメリカの、実際にあるらしいのどかな場所で、主人公の一家は「暮らして」いる。だがその暮らしは、サバイバーとしての暮らしであり、今後もそれが続くであろうことは、導入からすぐにわかるようになっている。一方、最後まで知らされないのは、なぜそのような事態となったのか、一家を襲ってくる、昆虫が巨大化したような「生物」は、なにもので、どこから、なんの目的で来たのか? ということ。
 ただ、days 64とか、days 451 とか、「日数」のみが知らされ、時間の経過はわかるが、あくまで、daysであり、1週間、1ヶ月、1年といった単位ではない。またなぜその一家だけが生き残っているのかも明らかにされていない。夫は、サバイバルの日々、「敵」が、どのような時に襲ってくるのか? ウィークポイントはどこか、などを研究している。おそらく他人のものであったろう古民家に棲みつき、周囲のとうもろこし畑などには、遠くからでも「危機」が一目でわかる灯りをめぐらせ、少し歩いたところにある谷川で捕った魚を食糧としている。
 「敵」の巨大昆虫様生物は、耳のようなものが巨大化し、バッタのような脚を持っている。どうも人間を襲い、それを食糧としているようだ。そして音をたてるものに襲いかかる習性があり、視覚は発達していないように見える、というより、眼がない。そこを研究して一家は生活を組み立て、サバイバルしてきた。普通、こういう設定の作品はゲテモノ・ホラーが多かったので、そういう展開になるのだろう思って見ていると、だんだん趣が違ってきていることに気づく。
 一家の主婦(エミリー・ブラント)が、長い釘を思いっきり踏んづけてしまったり、出産したりで、叫びたいようなシーンが山ほど盛り込まれ、そのすべてを沈黙で耐えなければならない。一家の長女は、小学校高学年かやっと中学生といったところか、聴覚障害で、父が作った特殊な補聴器を耳にあてがっている。これで、「敵」の発する特殊周波数の音を察知し逃げることができる。そして、これが、敵を全滅させることに導く。つまり、スピルバーグの「ET」では、地球外生物とのコミュニケーションは「ある音階」であったが、本作は、コミュニケーションとは言えないが、「接点」が音の周波数だと判明する。カート・ラッセルを思わせる風貌のこの利発な娘が陰のヒロインとなっていく。よくある紋切り型ホラーと違って、一家の無事は約束されていない。「当時」最年少の4歳の次男も、父親も、敵の犠牲となる。新しく生まれた男の赤ん坊と、少女の弟の長男を守るのは、そう、母親のブラントと聴覚障害の長女。彼女たちの「勝利」を、一応は活写して、この活劇は瞬時に幕を降ろす。



 

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